邪道【EVANGELION トウキョウスカイツリー®計画】 記念メダル

ケースの中に収められていた台紙

アマプラでの配信早すぎる問題。

 長年のエヴァンゲリオンマニアたちの喜び、苦しみ、戸惑い、叫びに終止符を打つ問題作、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』が映画公開終了から早々に、マジで一瞬で、早くもAmazonプライムでの配信が開始された。

 ついこの前、劇場に観に行ったばかりだと思っていたのに、という時の流れの速さよ(*´Д`)

 エヴァ作品は難解であり、かつそれが魅力でもあったりするので、「同じ作品は2度は観ない」を信条にしている私であるのだが、これはアマプラで配信されてソッコーで観た。そして今回は、映画公開から現在に至るまでに様々になされた「専門家」たちの考察動画を観てなんかわかった気になってから改めて観なおしたので、映画館で初めて鑑賞したときには口をあんぐりあけたまま置いてけぼりとなっていた2時間半が、今度はよく噛み砕かれた作品として自分の中にストンと落ちてきたような気がした。

 文学部国文学科という世の中に1ミリも貢献しない学問を納めた私の感想としては、エヴァンゲリオンは、大正昭和時代の近代文学に似ているという感想を抱く。つまり、研究論文を読んで初めて物語に込められた作者の意図を理解できるという構図である。プロレタリア文学とかマジでそんなもんばっかでマジで嫌いでした。中学校の作文指導では誰が読んでも理解できる分かりやすい文章を書きましょうと習ったのに、文豪と呼ばれる人たちはそれと相反する作品ばかりを書き、そして国文学者たちはそうした文学こそ良作品として研究対象にするので、一体何が正解なんだと悶々とする日々を送った。

 でも、エヴァンゲリオンは大好きである。

 『エヴァンゲリオン』という作品をリアルタイムで追い続けて来た者たちは、この『シン・エヴァンゲリオン劇場版』をもって、ようやくその長きに渡る旅に終止符が打てた。この旅は総じてワクワクして楽しいものであったのだが、道中には落胆、絶望、悲しみが常に寄り添う苦しい旅でもあった。

 その旅がようやく終わることに、寂しさを感じつつも、やはりどこか安堵する気持ちが強い。

 子育が終わるときってこういう感じなのかしら。

ポスターを見るだけで泣けます

私とエヴァンゲリオン

 映画『シン・エヴァンゲリオン劇場版』とのコラボイベント【EVANGELION トウキョウスカイツリー®計画】には、東京都の非常事態宣言発出等が重なったため結局行けず仕舞いとなった。元々【スカイツリー展望回廊イベント】には行きたくない気持ちとそれでも行きたい気持ちとがせめぎ合っている複雑な乙女心を持ち合わせもっているので(※おっさんが書いてます)、何もなくても行ったかどうかは半々といったところなのだが、エヴァンゲリオンは私の魂の根幹を成す作品の一つであるので、本音をいえばやっぱり行きたかったかなーといったところである。そして、行ったら行ったで「ここまで登るのにそもそも3000円オーバーで~」「国立科学博物館の特別展ではみんな何にも不満を言わないのにここのイベントは~」的な不満を並べつつ記事を書いたことでしょう(迷惑すぎる客)。

 というわけでこの記事では、ついにシリーズの完結を迎えることとなった作品『シン・エヴァンゲリオン劇場版』についての感想を述べることで、記事として成立させようという魂胆である。

 で。

 その前に、私と『エヴァンゲリオン』というアニメ作品について、少しだけ述べておきたい。なぜなら、ひとかたならぬ思い入れがある作品だからである。コロナのせいで共に延長されてしまったが、【東京オリンピック2020】と『シン・エヴァンゲリオン劇場版』は同年に予定されていたものであり、私ははっきりいってオリンピックよりエヴァ完結の方が楽しみだったといっても全く過言ではない。それくらい、エヴァに対する思い入れは強い。狂おしい愛。

 私はエヴァのテレビアニメ版を中学生のときにリアルタイムで観ていた世代である(歳がバレる)。その頃は神奈川県に住んでいたので、テレビ東京で夕方6時半から、母と夕飯を食べながら観ていた(他地域では朝に放映されていたところもあるそうな)。そのため、唐突に繰り広げられた加地とミサトのベッドシーンを母親と二人でチンジャオロースを食べながら観ることになった被害者世代である。無言で箸を動かすこと数分、あれほど気まずくチンジャオロースを食べた経験は後にも先にもない。

↓ちなみにこのシーンでございます。チンジャオロースを思い出します。

 主人公のシンジくんたちエヴァパイロットとちょうど同い年のときだったので、この中二病的アニメがドンピシャにはまったのかもしれない。シンジくんも私もまさに中学二年生であった。

 全話リアルタイムで視聴し、コミックも発売日に全てを購入した。コミックに関しては実に足かけ十数年に及ぶものであった。14巻しかないのに。シンジくんたちはいつまで経っても14歳だったが、私はすっかりアラフォーのおっさんになっていた。

 そして当然のように、「劇場版」といわれる映画作品もすべて鑑賞した。元々は、テレビアニメで物語は完結したはずだったのだが、最後の2話があまりにも意味不明だったので、劇場版でその最後の2話を作り直すというのが映画化までのそもそもの流れであった。

 ただこの映画版もいろいろありまして。完成が間に合わなくて総集編と最終話前話までで一旦公開したり、満を持して最終2話ver.を公開したらあまりにも救いのない悲惨すぎる結末に賛否両論が巻き起こったり(というか否ばっかりだったけど)。劇場でこの最終2話ver.を鑑賞した当時中学生だった私は、鑑賞中に極度の頭痛に見舞われフラフラになり、青息吐息の状態で最後まで鑑賞しきった後は、一緒に行った友達6人全員無言で劇場を出たという非常に思い出深い映画体験となった。ちなみに映画のラストシーン中のラストシーン、終幕となる寸前に放たれたヒロイン・アスカのセリフは、主人公シンジを見ながらの「気持ち悪い」である。

シンジがアスカの首を絞め、アスカがシンジに「気持ちわる」である。
歴史に残るラストシーンだ!( ;∀;)
(『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 air/まごころを君に』より)

 テレビ版+旧劇場版の話を一言でいうと「敵の親玉の思う通りになった」ということになる。「人類補完計画」というものがあり、敵の親玉はこれを実行するためにいろいろとやっていて、シンジくんのお父さんは敵親玉とこの計画を利用して自分の思い通りにしようとしていたんだけど最後に失敗、人類補完計画は普通に実行され、テレビ版も劇場版もその様子を描くというものだったのである。テレビ版は人類補完計画が実行されているときのシンジくんの内面だけを描くものであり、劇場版はそのときシンジくんの周囲ではどのようなことが起こっていたかという外面を描くものとなったのである。テレビ版の最終話がなぜあんなにも哲学的(というか意味不明)な内容になったかというのは、こういう理由だったわけである。まあどちらにしろ

納得いかん

というのが最大の問題であったわけであるのだが。納得いかんのよ、マジで。やはりバッドエンドというのはダメなんだな、ということを思春期の私は知ったのであった。

 そんな経緯で、魂を揺さぶれられるような作品は、イコール、魂のトラウマとなってずーーーーーーっと私の心に、喉に刺さった魚の骨のように居座り続けて月日は流れ。監督庵野秀明とその製作会社にも色々なことがありつつ、『新劇場版』と銘打たれたセルフリメイクシリーズが封切られたのが2007年~のことである。

 話としては、『序』はほぼテレビシリーズを踏襲しているものの、『破』から新キャラが登場するなど少しずつストーリーが変更されていき、『Q』に至っては、何の事前情報も入れずに劇場で初めて鑑賞したときには、冒頭から完全に置いてけぼりになるくらい全く別の話となっていた。

 そうなると、否応なく「どのように話を完結させるのか」というところに期待に胸が膨らまざるを得ない。

 そして、この物語の完結は、イコールあのとき思春期だった我々の旅の終わりでもある。そう、私たちの中で、未だにエヴァンゲリオンは終わっていなかったのである。つまり、中学生のあの時のままなのだ

 エヴァの完結とは、私たちの少年時代の完結を意味する。井上陽水もびっくりするほどの少年時代の長さなのである。その時代が、いまようやく終わりを告げた。

 実に長い旅であった。今ではすっかりお腹がぽっこりしたおっさんになってしまったよ。。。

シン・感想

劇中で綾波が第3村の農業を手伝うシーン。
現在毎日のように農作業に従事し、きゅうり畑を管理する私は知っております。これほどまでに曲がったきゅうりがなるのは、ひとえにうどんこ病、べた病などの病気ゆえか、害虫にかじられたせいであると。こんな形のきゅうりが我が家の冷蔵庫では溢れ返っております
(『シン・エヴァンゲリオン劇場版』より)

 で。

 劇場で初めて鑑賞したときの率直な感想としては、

よくわかんねー(*´▽`*)

である。

 庵野監督はとりあえず、「綾波をデカくしたい」し「ギャグを挟みたい(シンジをしんじよう)」し「最後は絵コンテを劇中に出しちゃいたい」んだな、という漠然とした印象のみが頭の中をグルグルと渦巻いた。2時間半の長丁場による疲労と、超展開の連続により、私は力尽き、思考が停止していた。

 その後ゆっくり噛み砕いてみても結局「よくわかんねー」にしか行き着かないのが、物語後半になってみんなで南極に乗り込むあたりからの展開である。「ガフの扉」とか「マイナス宇宙」とか「ゴルゴダ・オブジェクト」とか怪しい新興宗教もびっくりなほどのノストラダムスの大予言が起こると信じていた人達が好きそうな単語が連発されて、そこで私はすっかり思考停止していた。

 ただわからないことだらけの劇中で、とても救われた気持ちになったのがラストシーンである。

 旧作劇場版では何の救いもないまま観る者を置き去りにしてエンディングを迎えたのだが、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』では全ての者を救済しながら観る者を置き去りにしてエンディングを迎えたのである。観客は置き去りにされながらも、重要な登場人物が一人一人シンジ君の手によって救済されていく様子を、謎の「良かったね」の感情と共に見届けるのである。その救済シーンすらマジで謎なんだけども。

 個人的に一番印象に残ったのは、アスカの救済シーンである。これは旧劇場版をリアルタイムで劇場で観た者が受けた衝撃を体に刻んだまま生きて来た者だけが得るカタルシスなのではないかと思う。大層仰々しいことを述べているようだが、本当にそう思っている。あの日あの時中学生だった私が受けた魂の傷痕は、この『シン・エヴァ』のラストシーンを観てようやく癒えたのである。

上の方に掲載した旧作劇場版のラストシーンとそっくりな場面ですが、こちらはとても心が温かくなる、シンジ君の告白シーンです。
そして、旧作と同じ場所、同じ状況で、まったく異なる会話をする二人の姿を観ることで、私の少年時代がようやく終わりを迎えたのです。いや、マジで。
このシーンを観られただけで、鑑賞料金のもとは取れてお釣りが来ましたな(*´▽`*)

 一言でいうなら

エヴァの呪縛から解き放たれた

といえる。「エヴァの呪縛」というのは劇中のセリフにひっかけたものであるのだが、その辺の説明は割愛。

 とにかく、ようやく私の中でエヴァンゲリオンが終わったという安堵感が広がった。まあ結局よくわからなかったんだけど

 とにもかくにも、ハッピーエンドだったことははっきりしており、それがこの充実感を生んでいることは疑う余地がない。エンターテイメントはやはりハッピーエンドであるべきだと、改めて思う次第である。謎が残されても、解釈が多数あっても、最後だけははっきりとしたハッピーに包まれていなければならない。私、そう思います!

 現在では全国津々浦々に存在する有志達による説明・解釈がYouTube上には無数にアップされており、それを観て「へーなるほど~」とあっさり説得されていく陰謀説をすぐ信じるタイプの私は、予後を楽しんでいる。そしてどれが正しいのかたぶん庵野監督もわかってないんじゃないかな~と思う点で、近・現代文学の研究論文を読んでいるのと似たような気分になる次第である。

ループ説

あなたは何番目のカヲル君?

 新劇場版シリーズの大きなポイントとして、「物語2周目」(あるいは数周目)を思わせるシーンが度々登場する点が挙げられる。

 物語のキーパーソンの一人である「渚カヲル」(通称:カヲル君)が登場するたびに、意味深なセリフを吐くからである。

「また3番目とはね。変わらないな、君は」
「さあ、約束のときだ、碇シンジ君。今度こそ、君だけは幸せにしてみせるよ」
(死ぬ直前に)「そんな顔しないで。また会えるよ、シンジ君」

 等々。また、上記の画像は、カヲル君が一つの棺に一人眠っていて何人目かのカヲル君が棺から目を覚ますということを暗示するシーンである。つまり、1ループにつき1カヲル君が消費されていると推測されるわけである。

 全然知らない人にとってはピンと来ないかもしれないが、旧作を観て、新劇場版を見た者たちにとっては「どう考えても旧作の記憶引き継いでるっしょ!」と歓喜乱舞するようなセリフ・シーンなのである。

 このことは非常に重要なことである。つまり、「旧作と新劇場版は繋がりがある」ということを意味し、そしてそれは平たく言えば「旧作は無駄ではなかった」ということになる。

 新劇場版は、旧作を単純に描き直しただけの昨今世に大量にはびこるただのリメイク物なんかではない。すべてを一つの輪に含めた壮大な一つの物語なのである――ということが、エヴァマニアにとって非常に重要なポイントなのである。

 これはエヴァマニアにとって、そうではない人たちからは到底理解できないであろうレベルで、大変意義深いことである。全てが繋がり一つの大きな物語となることは、イコール自分たちが青春を捧げてきた過去のエヴァ活動(何それ?)にも意味があったことをすら意味するからである。旧作がダメだったからリメイクしましたでは、旧作に入れ込み大量に金も時間も投資していた自分の過去すら否定されているかのように錯覚してしまう。実際に自分がそうだったから、そう思うのである。

 これらを全て巻き取って、過去エヴァマニアだった者も、新劇場版からエヴァマニアになった者も、すべてのエヴァマニアを納得させ得る展開がループ説の深淵にある力強さなのである。

真希波・マリ・イラストリアス

いつの間にやら人気者。萌え~

 ちなみに、記念メダラー的な視点で『新劇場版エヴァンゲリオン』を語るとするなら、新劇場版のみに登場する新キャラクター「マリ」の存在が挙げられる(正確には漫画版にも登場するのだが、かなりややこしい話となる&本意とは逸れるので割愛!)。それが何かというと、「マリ」の声優をしているのは、あの記念メダルにもなった坂本真綾さんなのである。

大変綺麗な方なのですが、記念メダルにするとそうではなくなるこの世界の不思議発見。

 この「マリ」という新キャラクターの存在は、実はこの長きに渡って描かれてきたエヴァンゲリオンシリーズが終着点に向かうための最重要人物であったする考察が多々ある。それをマルチ商法にひっかかる情弱のごとく鵜呑みにしている私も当然そう思っている

 新劇場版は「序」「破」「Q」「シン」とナンバリングされてきたのだが、マリは第2作である「破」から登場する。「序破Q」はもちろん、雅楽や能の三段構成を表す「序破急」を文字って付けられたことは容易に想像がつくのだが、単に物語が本題に入る「破」という意味だけではなく、永遠に続くエヴァの「円環の物語」(※作中のカヲル君のセリフ。ループ説に結びつく単語)を打破する者として、「破」から登場したのである。エヴァのことを何も知らない人からしたらなんのこっちゃと思うかもしれないが、安心して欲しい。エヴァが好きなものとしてもなんのこっちゃ感は一向にぬぐい切れない。

 最終的にはこの「マリ」は主人公のシンジとくっつくというびっくらどっきりの超展開で物語は終劇するのだが、このように言葉にするほど簡単な話では実はない。

大人になった二人が山口県の「宇部新川駅」から飛び出すラストシーン
唐突な「実写+アニメ」にもちろん観客は「????????」で口あんぐりさ!
もちろんエヴァマニアたちはこぞって宇部新川駅に聖地巡礼である。
(『シン・エヴァンゲリオン劇場版』より)

 この「マリ」に関しては色々な考察があるのだが、ここではそれを一つ一つ考察することは避ける。

 ただ一つ言えることは、最後の最後になってマリの人気が爆上がりした現象には心の底から納得だということである。もちろん私も、すべての人類がそうであるように今では眼鏡っ子が大好きである(巻き込み事故)。

 ちなみにこの「マリ」はなんと、私と同い年である(マジで)。

記念メダルについて

これをメダルのデザインにしてほしかったな~という個人的な願望。まあ劇中でこんなシーンはないのですが。

 記念メダルは同一の金型でプリントイラストのみを変更した、宝塚歌劇パターンである。

 さらには、この金型はその後の【スカイツリー9周年】メダルにも流用されることになる。

 デザインに関しては正直特筆すべきことは何もないのだが、「エヴァがメダルになった!」という事実が、エヴァマニア&記念メダラーという属性の人間にとっては、歴史的出来事であるといえる(ニッチな需要)。

 以下、いただいた画像

黒いプラグスーツを着た綾波をマニアは「黒波」と呼ぶそうです
「プログナイフ」と呼ばれるエヴァの武器。『シン・エヴァンゲリオン劇場版』でもほぼ腕だけの敵がコイツを振り回してマリとアスカに迫ってきます
パンフレット:表
パンフレット:裏




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