恐竜と怪獣の違いがわからなかったあの頃……
私は幼い頃、ティラノサウルスのことを「怪獣」と言っていた。怪獣と恐竜の区別がついていなかったわけである。もちろん反対に、キングギドラのことを恐竜と呼ぶこともあった。
この現象は私にだけ起こった子供の頃のちょっと恥ずかしい体験の一つだと思っていたのだが、つい最近、ティラノサウルスを模した滑り台を指差して「怪獣乗りたい!」と声を上げているとっても可愛いお子様と出会った。可愛すぎて危うく「あれは怪獣じゃなくて、恐竜っていうんだよ」と余計なことを言う怪しいおじさんになるところであった(怪しいだけでなくうざいタイプでもある)。
【恐竜博2019】は、2019年7月13日〜10月14日の期間で開催された、【国立科学博物館】にて3〜4年に一度の周期で開催される恐竜博の一つである。総括責任者がインタビューされている記事を読むと、準備に2〜3年かかるらしい。その仕事量を3ヶ月くらいの特別展で消費してしまうのだから、なかなか割に合わない仕事である。
恐竜という存在はロマンに満ち溢れた存在で、男の子的要素が満載である。が、私は基本的に恐竜にはあまり興味がない子供であった。学校の図書館にあった恐竜図鑑等を見ても全然心はときめかず、ただ長いカタカナの単語が読めないし覚えられなかった記憶しかない。ちなみにこの「長いカタカナ読めないし覚えられない問題」は冗談ぽく述べているが、その後、高校の必履修科目である「世界史」において、致命的なまでの問題となった。私は受験を日本史選択で行う予定のクラスだったので、世界史の先生は我々に大変気を遣って穴埋め問題もいわゆる「語群」を用意してくれていたのだが、その語群に並べられたカタカナを見ても、私にはそれが王朝名なのか人物名なのかすらわからなかった。そしてその謎は今もって謎のままである。授業ノートを2時間くらい勉強しても18点だかだったので、余裕で追試となったのも今では良い思い出である。
ガダルカナルなのかカダルガナルなのかカダルガナルなのかガタルガナルなのか考えだすともうわからなくなるという気質を私はいまなおもつ。タカさんは一体どれなんでしょう。
話が逸れたが、私は【福井県立恐竜博物館】を訪れて十分楽しんだ経験をもっているのに、いまだにティラノサウルスとトリケラトプスくらいしか名前はわからない(見たことあるな〜というのはいっぱいいるが)。トリケラトプスに関しては本当はトライセラロプスなの? とかよくわかっていない。その辺はっきりしない問題。
で。
そんな絶望的なまでに恐竜に興味がない私であったが、「鳥=恐竜」の概念を得てからは、俄然見る眼が変わったことをはっきりと覚えている。そう、「鳥は恐竜の生き残りである」という学説は今ではすっかり世の中にも定着した感があるが、いつかのテレビの特集で初めてその話を聞いたとき、超衝撃的だったのを覚えている。なぜなら私は焼き鳥が大好物なのだが、言ってみればモンスターハンターばりに恐竜を焼いて食べているのと同じだということになるからだ(そこ⁉︎)。
この「鳥は、恐竜の生き残りの進化した姿である」という割と近年になって判明した定説は、なかなかロマンに満ち溢れているし、何より進化とは何かということを考える上で非常に興味深い話である。進化は「目指す姿に進む現象である」的な「定向進化」という概念は現在では否定されていて「キリンの首はなぜ長いのか」→「高いところの餌を食べるために何世代もかけて首を長くした」といった、私たち世代が幼い頃に子供向け番組等で説明された考えは間違いだったことがわかっている(私たち世代が幼い頃から間違いだとわかっていたはずなのだが)。「進化」とは、望んだ通りの姿に変わっていくわけではなく、「適応した者が生き残っていった結果そうなった」のである。ウマは少しずつ足が速くなるように進化していったのだが、それは「足が速くなりたい」とウマ達が種族として念願したわけではなくて、足が遅いやつは食われて、速いやつが生き残っていった結果として、足が速い者同士で交配が繰り返され現在の姿となっていったのである。理屈としてはサラブレットを作り出す原理と同じといえば同じであるといえる。話を戻してキリンの例で言えば、「高いところの餌を食べるために首を長くした」のではなく、「首が長くて高いところの餌を食べられていた奴が生き残ったので、子孫はみんな首が長くなった」ということになる。まあキリンの首が長いのが高いところの餌を食べるためなのかはよくわからないが。
私はこの話にそれこそとてもロマンを感じていて、いろいろと深く難しい問題をはらむのであまり詳しく言及することは避けておくが、この進化論で考えると、人間はこれ以上進化しないんじゃないかなと思うのである。なぜなら、「愛」があるからである。「愛」は、あらゆる負の要素をも超越して成り立つものであるといえる。それは逆に言えばその負の要素を「遺伝的には」克服できないことを意味している。遺伝的に優れた者同士が掛け合わされた方が「種としては」良い結果になることはそれこそサラブレットの存在で実証されているわけであるが、「愛」は遺伝由来の優劣をも超えたところに存在するので、その遺伝的な負の要素をも次世代へと受け継がざるを得ないということである(まあ何をもって「優れている」と考えるのかは大きな問題であるが)。例えば、私の家系はガン家系であり父も母も祖父母に至るまでガン経験者であるので、私のガン発症リスクは高いと考えるのが普通である(健康診断の問診票でも家系にガン経験者がいるか訊かれるし)。ただ一方で、女性が私と結婚をするというときに、「ガン家系だから嫌」という人は恐らくそういないと思われる。顔がのび太くんみたいで収入が賭博黙示録カイジみたいだから嫌だと思われることはあるかもしれないが。
このことは、人類は遺伝的にはガンを克服するような進化を遂げるのは難しいこと意味しているのではないだろうか。何かの拍子で「ガン家系ではない」ということが超絶なまでのモテ要素にならない限り、人類はガンに対抗するような進化を遂げることはできないことを意味している。だれか早く特効薬を作ってください。
何が言いたいかというと、愛こそロマンだよね! ということである。人類は種として、進化よりも愛を選んだのである。「愛」こそ、人間にとっての最大の進化なのである! 知らんけど(・Д・)
そしてこのロマンの根源は、「恐竜→鳥」の進化にあるのである(無理やり感あふれる閑話休題)。「強いものが生き残るのではなく、適応するものが生き残るのだ」とダーウィン先生もおっしゃっているわけで、「鳥=恐竜」は現代まで適応して生き残った。適者生存で淘汰されていった結果が今の姿だと思うと、ゴミを漁るカラスにも敬意を払わねばならないと思えてくる(払わない可能性大)。ちなみに「恐竜の子孫が鳥」ではなく、「鳥は恐竜そのもの」であるというところがロマンポイントが高いところだよね!(ロマンポイントって何やねん?)
ただたぶん、恐竜の化石を見て目を輝かしている少年に「鳥は恐竜の生き残りなんだよ」という話をしても、全然喜ばないのではないだろうか。恐竜のビッグなスケールにこそ魅力を感じているのなら、ベランダに干している布団にフンを撒き散らしていくあのハトが恐竜の生き残りだという話を大人がマジなトーンでしたら、きっと反応は微妙だと思うのである。恐竜の巨大な化石からは少年の心を掴むロマンが溢れ出ているかもしれないが、ハトからは休日の公園で集団でエサを漁る姿しか溢れ出てこないだろう。
しかしながら、私は恐竜の「行き着いた先」が鎌倉名物「鳩サブレー」のモデルとなったあのハトだということにこそ知的好奇心が刺激されるのである(さっきからハトの姿が微妙なものばかりという問題)。この点は少年が恐竜に魅力を抱くその心とは実は相入れないものなのではないだろうか。
少年の心がときめく要素と、世の中の辛酸を舐め尽くした大人が関心を示す要素は、「恐竜」という共通事項を通したとしても、その源泉はまったく違うものなのである。世の中の辛酸を舐め尽くした大人など見たことがないが。舐め尽くすって相当ですよね。
余談だが、現在職場が席替えとなり私より年下の人妻が隣の席となった。で、その方のお子さん(♂)が、ゲームを好きなだけやったり甘いものをバクバク食べたりする父の姿を見て「早く大人になりたいな〜」と言っていたという話となった。
私はその話を聞き、なかなか深いな、とふと思った次第である。というのも、よく「いつまでも少年の心を忘れない大人になりたい」みたいなフレーズが、例えばアウトドア特集をするテレビ番組等で出てくるが、実際の少年の心と照らし合わせると、非常にアンビバレントな要素を内包していることとなる。というのも、現実の少年は「早く大人になりたい」と思っているわけで、そうなると「いつまでも少年の心を忘れない大人」というのは、実際には少年の心をすっかり忘れてしまっていることになる。理屈で考えると、「大人であることに心から満足している者」こそが、真の少年の心を忘れない大人だということになるまいか。少年の頃抱いていた想いが叶ったのだから。
このように、「早く大人になりたい」と思っていたあの少年の頃の想いを覚えているなら、大人になってから「少年の心を忘れたくない」と述べるのは大きな矛盾をはらむことになる。レンタルビデオ屋で「はやくあの暖簾の向こう側にいけるようになるたい!」と思っていたのが真の少年の心な訳である。目一杯「少年の心を忘れたくない」方々が抱いているであろう気持ちに寄り添うならば、人目を気にして暖簾の前でキョロキョロウロウロしている姿を晒す者こそが、ある意味では真の「いつまでも少年の心を忘れない大人」であるということになる。私は暖簾の向こう側に行くときはいつだって世界で一番堂々とした気持ちとなる(いまではレンタルビデオ屋自体まったく行きませんがね〜全部ネットですよね〜)。
すげーどうでも良い話をしてしまったが、何が言いたいかというと「恐竜の化石を見ると少年の頃の心を思い出す」という感慨は私には一切なく、むしろ大人になったからこそある程度面白いと感じるようになったということである。これは実は動物園でも水族館でも博物館でも美術館でもまったく同じことがいえて、私は子供の頃はライオンを見てもイルカを見ても、何が面白いのかさっぱりわからなかった。親は「とりあえず水族館連れて行っときゃいい」みたいな感覚で連れていっていたけれども。私は神奈川県の「湘南」と呼ばれる地域出身なのだが、おかげですっかり【江ノ島水族館】が嫌いになりました。
つまり、私がシロイルカのバブル芸やコアラが陸上を歩くレアな姿を目撃してはしゃぐのは、「少年の心」由縁ではないということである。そうではなく、いろいろとこの世界のことが認知できるようになったから、その仕組みの不思議さやレアさを感じられるようになり、面白いと感じるようになったわけである。純粋なる少年の心でそれらを見ても、私の目には一動物の一動作にしか過ぎなかった。牛が草を食ってる姿と対して差はなかったわけである。
つまり、私は幼い頃、恐竜の化石を見ても「骨じゃん」としか思わなかったわけである。骨見てもつまらん、と。
しかし大人になって、目の前にそびえ立つ巨大な骨の背景には様々なストーリーがあることを知って、そのストーリーにこそ心がときめくようになった。それは「恐竜」というロマンあふれる存在がもつ多くの謎や絶滅に至るまでのストーリーはもちろんのこと、この「骨」に携わってきた人間がたくさんいて、今こうして自分の目の前に存在すること自体、それに尽力してきた人間がいることをも含むストーリーである。
むしろ私としてはやっぱり後者の方が心惹かれるかもしれない。所蔵元の博物館ですら展示していなかった門外不出の一品であるディノニクスの化石をどうやって引っ張り出したのか、そのストーリーに惹かれるタチである。
以上、話があっちにいったりこっちにいったり大変どうでも良い話ばかりに費やしてしまったが、「恐竜→鳥」の進化の過程を示す超重要化石「デイノニクス」「デイノケイルス」が展示されていたことが話題となった特別展がこの【恐竜博2019】だったわけである。担当者が「もう二度と日本にはやってこないでしょう」というくらいだからね! 頑張って行っておけばよかったね〜
記念メダルについて
私が所有しているこのメダルは、【茶平工業】を訪問した際、机に上に放っておかれたものをいただいてきたものである。
そこには恐らく返品されてきたと推測される数枚のメダルが入っていた。ということは、このメダルも返品されたものだということになる。事実、メダルの右下あたりに結構大きな傷がある。
ただ私はこのイベントに残念ながら行けなかったので、これくらいの傷、全然無問題ですな(*゚▽゚*)ムハー
このイベントの記念メダルは掲載したメダルの他に2種類ある。一枚は「ザ・恐竜博」と言えるような王道な化石モチーフの図柄(デイノケイルス)で、もう一枚はなんと「すみっコぐらし」とのコラボな図柄となっている。ドーモくんメダルはNHKがこのイベントのプロモーションをしている点などからなんとなくわかるのだが、突如として現れたサンエックスの刺客に、普段「キャラクターメダルは買わない」という信条をもつこだわり派の記念メダラーは大変悩ましい想いに駆られたのではなかろうか。この可愛らしいメダルを買うのか買わないのか。
経験上言えることは、「悩んだ時点で、買わなかった場合はあとで後悔する瞬間が必ずある」ということである。特に、同行者の目や言葉を気にして買うのを控えた場合は、自分の意思で決定していない分、その後悔は深くなる。
人生は、周囲の者が勧める「安心・安全な道」と、「自分が本当にやりたいこと」の2択の連続である。あなたの近しい人はあなたのことを想うからこそ安全・安心な道を勧めてくるだけに、その善意を払い除けて自分が本当に望む道を歩むことは容易なことではない。人間は、自分の善意を無下にされると気を悪くするものなので、己の道を進んだ後はきっと、大なり小なり気まずい空気が流れることだろう。自分の望む道を進むことは、安全・安心な道を選んで生きてきた善意の助言者達の人生そのものを否定することに等しいのである。
しかし己が選んだ道の先にしか、「メダル全買い」という大人にのみ許された特権は存在し得ない。記念メダルを全種類購入するなど、誰からも理解されないことだと心得なければならないのである。善意という名の逆境を渡り切った先にしか、後悔のない平穏な世界は待っていない。
そしてその後悔のないユートピアを、世の中では「沼」と呼ぶ。己が強く望み、人々を振り払ってまで強い意思のもとたどり着いたユートピアへ至る道は、決して後戻りのできない一方通行路でもあったのであった———
何の話なのか訊いてはいけない。はい。
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