煩悩を受け入れた宗派・浄土真宗「煩悩成就のわれら」(親鸞談)
親鸞といえば言わずと知れた鎌倉新仏教の一つ「浄土真宗」の宗祖(ちなみに開祖と同じ意味らしい。仏教では宗祖と呼ぶそうな)である。私は専門ではないので少し曖昧なところがあるが、現在の仏教はその潮流を辿ると大体「天台宗」に行き着くはずである。鎌倉新仏教は、「天台宗」で行なっていることを簡素化したもの(天台宗で行なっている修行の一つを、「それだけやればよい」というようにした感じ)であるとされている。そんな言い方をしたらその宗派の人に怒られるかもしれないけど。また、もう少し事情は複雑だとは思うけど。
親鸞も、お坊さんへの始まりは天台宗への出家からである。当時9歳だった親鸞は、得度(お坊さんになること。キリスト教でいう洗礼的な?)を当時の天台座主(一番偉い人)から受けるのだが、天台座主が何らかの事情で得度を翌日に延期しようとしたとき、「明日があるとか思うからいかんのだわ。夜中に死んだらどうすんねん」みたいな意味の和歌を詠んで、天台座主をたしなめたという。これは親鸞の非凡な人物を表すエピソードとして語られているのだと思うが、私が率直に思うことを述べれば、「こんな9歳いたらまじめんどくせーな」である。逆に9歳だったから許されたけど、15歳くらいだったら、言った相手(天台座主)を考えると、マジギレされてもおかしくないエピソードである(天台座主はなにも言わなくても、周りがガチキレするパターン)。
いやね、言っていることは正しいのよ。子供というのは、実は正しいことを言うことが多いものである。しかしそれは、「己の身を省みる力がないから」に由来するところが多々あるわけで。例えば、「遅刻はいけない」というのは誰から見ても文句のつけようがない真理であるわけだが、大人であれば、「でも自分もこの前遅刻したしな〜」と思うから強く文句を言うのを控えることがある。しかしいつも正論を言って相手を非難することにためらいのない人は、たとえ自分が幾度となく遅刻していようと、人が遅刻をしたときには「遅刻はいけないんだよ」とたしなめてしまう。それはつまり、「遅刻はいけないということを指摘することは、自分も遅刻できなくなるということでもある」という他者コミュニケーションの(暗黙ではあるが)重要な真理を、全然理解していないということである。子供はこの真理を(暗黙ゆえに)理解していないから、いつも正しいことが言える面がある。
「正しいことを言うなら、正しいことをしてからにしろ」
というのは、私の母の教えである。私にマジムカついたんだと思われる。
そんなわけで、このエピソードは私の中では、「こいつ、めんどくせーな」エピソートとなっている。
親鸞は、天台宗で20年くらい修行したのち、浄土宗の宗祖・法然を師事する。浄土真宗の「真」は「真実の教え」みたいな意味なのだが、別に法然と仲が悪くなったわけでは全然なく、むしろ「法然の教え」みたいな意味である。本人は独自宗派を改宗したという意識はなく、後の弟子たちが自分たちの宗派を「浄土真宗」と名乗ったとされている。親鸞本人は極楽浄土でどう思ってるんでしょうね。私だったらもちろん「こらこら、困るな〜君たち」と言いつつ、超ニヤニヤするだろうが(俗の極み)。
この流れを汲んだからなのかどうかは不明であるが、一口に浄土真宗といっても、現在では主要なものでもさらに10派に分かれる。その10派をまとめた団体が「真宗教団連合」である。一般ピープルに一番なじみがあるのは恐らく本願寺派(西本願寺)で、二番目が真宗大谷派(東本願寺)ではなかろうか。西本願寺と東本願寺は実はほぼ隣り合っており、【京都タワー】からその全貌が見渡せる。左にあるのが西本願寺で、右にあるのが東本願寺である(そのまんまな解説)。この二つの寺院には、今こそぜひリニューアルした親鸞記念メダルの設置をお願いしたいものである(どさくさ)。
浄土真宗は他の仏教とはかなり毛色の違う特色が濃い(新興宗教的なのは除いて)。最も顕著なのは、鎌倉の時代から「肉食」と「妻帯」が許されていた点であろう。今でこそどの仏教宗派であろうと肉を喰らい女を娶っているが(言い方に問題あり)、当時からそれを表立って許していたのは浄土真宗のみである。親鸞自身ももちろん妻がいて、子沢山であった(もちろん資料を読めば、他の宗派のお坊さんも特に女性関係は必ずしも潔癖ではないのだが)。戒律もないし、加持祈祷も行わない。作法等も簡潔で、とにかく念仏を唱えましょう的なゆる〜いイメージがあり、初心者に優しい仏教であるといえる。それゆえに他宗派から批判もされてきた(まあ浄土真宗でなくても他宗派から批判されることはあるし、することもあるしだが)。
現在でも、頭を剃っていないお坊さんであれば浄土真宗のお坊さんである可能性が高いという、なかなか我が道を行く仏教である。野球強いけど髪が長い高校、みたいな(違う)。
独自路線で民衆に受け入れられた背景には、やることが簡潔なので文字通り入門するのに敷居が低いという点や、肉食妻帯などのいわば「煩悩」があることを否定せずにむしろ受け入れている点が大きいと思われる。悪人も極楽浄土に行けるという「悪人正機説」は日本史受験で親鸞と必ずセットになって出てくる思想であるが、ここでいう「悪人」とは世紀の大泥棒のことでもなければ連続猟奇殺人犯のことでもなく、いわば一般ピープルのことである。根底には「こんなクソみたいな世界に生きている奴ら全員大なり小なり悪いことをしている悪人だわ」という考えがあり、それが自覚できた者こそ阿弥陀仏に救済される(他力本願)とされるのが「悪人正機説」である。この説に従うと、自分を悪人だと自覚できていない者はすなわち「善人」であり、自分が良いことをしている善人だと勘違いしている奴は救いようのない真の「悪人」であるということになる。なんかめっちゃひねくれた物の考え方のように思えるのだが、どんなに良い人でも絶対少しくらいは悪いことをしてるだろう、それを仏様は見逃さないんだぞ、というのは一理あるといえば一理ある。それを自覚できないなんて救いようのない悪い奴だな、というのは、職場で自分が同僚に迷惑をかけていることを自覚できずに自分が正しいと思って我が道をガンガン突き進めていく「やる気のある無能」みたいな感じであるのかな。
現代でも浄土真宗は主要仏教の中で独特な存在であるというのは、天台宗のお寺の副住職の談である。
あなた(仏教)と私(記念メダル)の関係
宗教と記念メダルは実はそれなりに深い関係のある間柄で、最近では珍しくなったものの、過去に何枚かの存在が確認されている。とりわけ仏教とは縁が深く、お寺の観光記念グッズ?としてはもちろん、「御守」と銘打たれた記念メダルや、何らかの祝賀に際して作られたメダルなどがある。ここではついでのような話であるが、仏教関係の記念メダルをテキトーに並べてみたりラジバンダリ。
記念メダルについて
私は正直、記念メダルと人物画というのは相性が悪いと思っているのだが、このメダルはイイ! さすが親鸞だ!(知り合い?)
こんなに厳かな雰囲気で記念メダルに描かれた人物は他にいない。例えば-ーということで、以下その例。
↑このように見ていただければ感じていただけると思うが、とにかく表情に覇気がなくなるのである。【星野仙一】監督なんて、「闘将」の二文字が泣いてしまうような、疲れたおじいちゃんと化してしまっている。当時は現役バリバリの監督だったのに。この他にも長嶋監督の記念メダルがあるのだが、梅干し食べて酸っぱいみたいな顔となってしまっている。
これらのことにより、とにかく「記念メダルと人物画は相性が悪い」というイメージがあった。しかし、ここにきてこの親鸞のメダルである。めっちゃ覇気がある! 目に生気がある! なんならカッコいい!(人による)。
1970年のメダルでこの表現ができたのに、なぜこれが後世に伝わらなかったのか。メダルの製造技術の問題ではなく、やはり親鸞が特別であって、親鸞だからこそこのような覇気がメダルからも伝わってくるのか。一向一揆か?(唐突)
そんなわけで何気に気に入っているこの親鸞メダル。ちなみにこのメダルを購入しようと思ったのは、現在の仕事のパートナーが、浄土真宗のお寺の娘さんとのことだからである。しかも誕生日が親鸞と同じらしい。
「それ、もうほぼ親鸞じゃん」
と、言ったら、
「そうなんです」
と普通に返されたので、恐らく親鸞なのだと思われる。ちなみに記念メダルに関して非常に厳しく、記念メダルの話を振っただけで鬼の形相で睨みながら話を終わらせてくる。そんなわけなので、「ほらほら、親鸞も記念メダルになってるんだよ〜」と少しでも懐柔するために購入するに至ったわけだが、「末代までの恥ですね」とまさに末代に当たるかもしれない親鸞の生まれ変わりに言われてしまったので、記念メダルというものはつくづく女性ウケしないものだと痛感した次第である。御朱印集めは女性の間でブームだというのにねぇ……
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