邪道【沖縄復帰記念特別国民体育大会 若夏国体(1973年)】 記念メダル

  【沖縄復帰記念特別国体】とは、1973年に開催された、沖縄の祖国復帰を記念して開催された国体である(そのまんまな説明)。通常の国体とは違い、全国の予選は行われず、都道府県ごとに出場する種目とその人数を割り振って開催したミニ国体であるらしい。そのため、大会回数にはカウントされていない、おまけのような国体なのである。なんとなくアンニュイな立ち位置の不遇な国体であるといえる。しかしながら、沖縄で初めて開催された全国規模の大会ということで、その意義は大きい。のかもしれない。よく知らないけど。

 私は国体に全く興味がない。

 そもそも、一般ピーポーは国体に興味がない人が多いのではなかろうか。スポーツ競技者は、高校・大学と卒業してもまだ競技を続ける者は、よくこの「国体」を目指す。マイナースポーツであれば特にである。しかしながら多くの一般人にとっては、「国体」という言葉は知っていても、いつ、どこで、何が行われているのか一切知らないことの方が多いだろう。それくらい普段の生活に馴染みがないものである。

  サッカーや野球などメジャーなスポーツは、「国体」以外にもメディアに取り上げられるような全国を舞台にした晴れの舞台が用意されているが(サッカーは天皇杯、野球は都市対抗野球大会等)、マイナースポーツであると、全国大会が存在しても、一般人の目に触れることはほとんどない。だからといって、「国体」が日の目をみるかといえば決してそうではないところがあるのだが、ただ「国体」というスポーツの祭典のネームバリューは国民に知れ渡っている。早い話が、「国体に出場したことがある」「国体選手だった」と言えば「すごーい」と言ってもらえる。これは「オリンピック」でも同じような効果がある(もちろん、効果ははるかに上である)。「カヌーをやっている」と言っても恐らくそれがアピールポイントとして有効となる女子は砂利の中の砂金級に存在が不確定であるが、そこに「オリンピックに出た」という言葉を付け加えると「すご〜い」という歓声をいただけるはずである。これと同じように、そこまでの効果はないにしても、「国体に出た」といえば、「えっ、すごいですね!」とちょっとしたアピールポイントになることだろう。少なくても「スポーツですごかった」ということは伝わるはずである。

  「国体」とは、いわば国内のオリンピックなのである(なんのひねりもないたとえ)。

  ただ、その実態と全容は私のような一般ピーポーにはおよそ縁がない。ひっそりと毎年どこかで行われ、始まりも終わりも知られないまま終了している。結果がメディアで披露されることは、たとえメジャースポーツであってもほとんどない。

  国体は選手選考も独特な場合が多い。例えばサッカーでは現在では「15歳以下」という規定があり、実質ジュニアユースの大会となっている。そのため、サッカー雑誌でもないかぎり日の目をみない。また、県選抜とはいえ、少ない練習時間でチームを作り上げなければならない事情からか、地方の県では強豪チームを一チームそのまま県選抜にするというようなこともままある。まあこれは、色眼鏡なく選手選考しても上からすべてそのチームの選手が一番上だった、ということも、チームの母体数が少ない県ではありえるのかもしれないが。

  また、オリンピックと同じように、参加資格が度々問題となることでも有名である。オリンピックと同じように「強化指定選手」制度がある競技もあり、アマチュアスポーツ選手にとってそれはとても名誉なことである。しかしながら、県の強化指定選手に選ばれた選手が、県内に在住はおろか在勤すらしていないということがままある(つまり、住民票登録「だけ」を該当の県で行う)。この問題が起こる根本的なところは、「開催県が総合優勝をする」といういわば「暗黙のルール・しきたり」があるからだと言われる。開催県からの依頼のために住民票を移して活動する選手を「渡り鳥選手」と揶揄して呼ぶ。渡り鳥選手は、たとえ一時的に開催県に活動拠点を移しても、国体終了後は県外や海外にさっさと活動拠点を移すことがほとんどである。

 2010年の千葉国体では、翌年の開催県である山口代表の選手30人以上が上記のような状態を指摘され「出場資格違反」とされた。翌年の地元開催&優勝に向けて、山口県は有力な渡り鳥選手を集めいていたというわけである。しかしこれは別に山口県のみの問題ではなく、いままでずっと慣例としてやられてきたことであり、突然山口県だけがやり玉に挙げられたのは、山口にとっては不公平感を抱いて当然といえる。この年であれば、「じゃあ千葉はどうなの?」と言いたかったことであろう(実際言ったと思うし。私なら即言う)。

 そもそも人口からして違うのだから、「県代表」という形を取る限り、平等などあり得ないのである。つまり、総合優勝は特定の強豪県が常にかっさらう状態こそが当たり前であり、「開催県が絶対優勝」ということ自体が恐ろしいほど不自然なのである。どれくらいあり得ないかというと、私が行く先々で必ず女の子から連絡先を聞かれるようなものである。違うか。

 オリンピックでもそうであるが、開催には施設整備等の金がかかる。金をかけるからには、それなりの結果を出さなければならないという暗黙の圧力がある。2020年の東京オリンピックで仮に「金メダルが一つも獲れませんでした」なんてことになれば、掛けた費用の分だけ行政(特に東京都)は恐らくものすごい批判を浴びることになるだろう。「金掛けた意味あったんか?」みたいな。本来であれば行政にスポーツの結果を理由にした文句を言うのはとんちんかんな批判であるのだが。

 日本国内レベルの大会であれば、開催県は掛けた手間暇と費用を考えると、蓮舫議員に「2位じゃダメなんですか?」と訊かれれば「ダメなんです」となるだろう。その重圧の中で、開催県は国体総合優勝を狙えるような選手選考を「全国」から行ってしまう。そうした流れが長年あったなかで、悪しき慣習の泥沼化を断ち切るために2010年における指摘はなされたのだろうと予想する。山口県にとっては人身御供的な役割を背負わされ運が悪かったとしか言いようがないが。

 かつてフットサルのワールドカップで、イタリア代表の選手全てが「ブラジルから帰化したイタリア人」というチーム構成で批判を浴びたことがある。選手にとってみれば「帰化」というのは一生を左右する非常に大きな決断で、生半可な覚悟ではなかったはずだが、そんな選手の覚悟とは関係ないところから、こうした批判はやってくる。「それはイタリア代表と呼べるのか」――と。

 それと同じような問題が数十年前から日本にはあり、主に時間的・金銭的な面からくる大人の事情から、開催県絶対優勝が半ば義務付けられてきた。

 金が掛かって手間暇もかかる上にそんなに注目度もないならやめれば――というのは私のような一般ピーポーの安易な考えなのだろうか。少なくてもスポーツ選手としてはやはり「〇〇代表」「〇〇選抜」というものに選ばれるのは一つの誇りであり、目標でもあるので、国体の存在そのものがなくなることには反対だろうか。

 何事も、一度始めたことを全くやめるというのはなかなかに難しい。ヒモ男を切れない献身的な女性が抱える問題と似ている。違うか。




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