邪道【広島東洋カープリーグ優勝 1979年】 記念メダル

1979年のプロ野球は、広島東洋カープが球団史上初の日本一に輝いた年である。

 この記念メダルは「リーグ優勝」のメダルなので、もしかしたら「日本一」バージョンのメダルが存在するかもしれない(記念メダルの慣例としては製作されることが多い)。

 ちなみに、【1975年のリーグ優勝】時のメダルとほぼ一緒のデザインである。

 

↓【1975年広島リーグ優勝メダル】

 

 デザインはほぼ一緒であるが、表面は特に異なっている。一番の違いは1975年バージョンは凹凸ではなく線画で描かれている点である。こうしたデザイン(1975年バージョン)の記念メダルは他に所有しておらず、非常に珍しいと思われる。

 1979年は、日本プロ野球界にとって大きな話題を二つ生んだ年である。「始まり」と「終わり」の2度である。

 「始まり」は、あの有名な「江川事件」である。別名「空白の一日」と呼ばれる出来事で、私世代が知る江川といえば、現役当時のプレーなんぞ一切知らず、徳光和夫との激論バトルか、この「空白の一日」という言葉だけである。

 ただ、「空白の一日」というキャッチ―な言葉のみは知っているものの、その内容を知っている者は案外少ないのではないかと予想する。しかし調べてみると、まさに「空白の一日」と呼ぶしかない、言い得て妙なネーミングな一日があることがわかる。

 1979年のプロ野球界には、確かに「空白の一日」が存在したのである。

 この「空白の一日」というのは、超簡単に言えば「旧制度から新制度に移行する際に設けた空白の一日」のことである。具体的には次のような要件にまとめられる。

 

①江川は大学卒業時のドラフトで西武ライオンズ(正確にはドラフト当時は親会社が西武ではないが)から指名を受け、西武が交渉権をもっていた。

②ドラフトにより獲得した交渉権の有効期限は翌年のドラフト会議の前々日と定められていた。

③この当時のドラフトの規定には、ドラフトの対象とする学生を「日本の中学・高校・大学に在学している者」としていた。

④当時江川は大学を卒業して上記の西武からの入団の誘いを断り、アメリカへ野球留学をしていた。そのためこの規定上では、実は江川はドラフトの対象にはならないことになる(社会人野球からの指名はまた別の規定であり、かつ、江川は社会人野球にも進まなかったため)。つまり、西武の獲得交渉権の期限が過ぎれば、自由契約の身となる予定であった。

⑤そこで、次のドラフト会議からは「日本の中学・高校・大学に在学した経験のある者」という規定に変更される予定であった。

 

 ここで重要なのは②と⑤である。②「西武の交渉権は次のドラフト会議の前々日に消滅する」と、⑤「在学経験のある者をドラフトの対象とするという新規定が有効となるドラフト会議」の間には、「空白の一日」が存在するのである。すべての元凶は、交渉権が「前々日」に消滅するという規定のせいである(交渉権の期限が切れるギリギリまで交渉していた場合、前日だとドラフト会議の出席に間に合わなくなるかもしれないから、という理由らしい。なんじゃそりゃ)。ドラフト会議の前日は、「西武の交渉権」が切れ、かつ、「在学している者」だけがドラフト対象となる旧規定がいまだ適用される日となり、大学を卒業していたためドラフトの対象とならない江川は、この一日は自由契約の身となるんだ! という主張を巨人が強行し、極秘裏に帰国していた江川とこの「空白の一日」に入団契約を結んだのである。

 この強硬策に猛反発した球界は、翌日のドラフト会議で江川を強行指名する球団が数球団あった。結果、阪神が交渉権を獲得した。

 しかしこれに当然ながら猛反発したのが巨人で、「セ・リーグやめる」「ドラフトに縛られない新しいリーグをうちが作る」とまで言い出した。これに困った球界コミッショナーが「一度阪神に入団させた後、即巨人にトレードさせる」という結局巨人寄りな解決案を提示する。その後もすったもんだと細かいことはありながらも、結局はおおむねそのような流れで解決し、江川は「開幕戦で巨人にトレード」という前代未聞のことになった。

 私見を言わせてもらえば、巨人がこの「空白の一日」を利用して入団契約を交わしたのはめっちゃ頭がいいという感想以外にはない。盲点を突かれて出し抜かれたことにグチグチと文句を言うほどダサいことはないというのが私の価値観である。が、世の中というか世間を大きく騒がすほどの大騒動になると、こうした手法はまかり通らなくなることが多い。事柄は全く違うがその世界の盲点を突いて世間を騒がせた事件としては「ライブドアによるニッポン放送株大量購入事件」がパッと思いつく。法律や規定的には一切抵触していないが、闇討ち的なやり方&ターゲットがビッグネームという二つの要素が合わさると、「仁義に反する」というような理屈ではない理由で認められなくなることが多い。「仁義に反しようがルール違反ではない」という主張がまかり通る確率は、結局騒動の大きさと反比例するのである。この「空白の一日」の事案だって、結局は対象が江川卓というビッグネームでなければ、もしかしたらまかり通っていたかもしれないとちょっと思ったりするのであった。

 1979年のもうひとつの出来事は、「江夏の21球」である。

 この年の日本シリーズは、セ・リーグ王者の広島と、パ・リーグ王者の近鉄が、ともに初の日本一を賭けた戦いとなった。それだけに大熱戦となり、一進一退の攻防で、最終第7戦までもつれる熱戦となった。その第7戦も9回裏の時点で4対3の広島1点リードで迎えるという大接戦となり、その9回裏に広島のピッチャー江夏が投げた合計21球に焦点を当てたのが「江夏の21球」である。

 簡単に言えば、この9回裏に、広島はノーアウト満塁のピンチを迎える。お互い初の日本一を賭けた意地と意地のぶつかり合いに相応しい、激アツの展開だったのである。

 一球一球にドラマがあるようだが、一番大きなポイントとなったのは19球目に投げた「スクイズ失敗」を呼び込んだウェストボール(バントを回避するために意図的にストライクゾーンを大きく外した球)である。

 このウェストボールが「カーブ」であったことが、後々に至るまで物議を醸し出すことになる。つまりは、スクイズ回避は「意図的」だったのか「たまたま」だったのか。

 ウェストボールは通常、ストレートで行われる。変化球にする必要が全くない上に、変化球で行えば無駄なリスクがあるからだ(球は遅いしキャッチャーは捕りにくいし)。だから、このとき対戦した打者は「あれはカーブがすっぽ抜けた結果、たまたまスクイズ回避になった」という心証を残している。しかしピッチャーの江夏は「スクイズの構えにするのが見え、キャッチャーも立ち上がったのが見えたので、意図的に外した」と主張している。

 変化球の投球途中でウェストボールに変更するのは至難の業とされており、通説に従えば「ありえない」わけである。しかし一方で、「江夏ならありえるかも」という見方もあるのが、江夏の大投手たるゆえんである。まあよく知らんけど、江夏とか

 全ては私が生まれる前の話であり、そして私はプロ野球に鼻毛の先ほどの興味もない。ただ、プロ野球優勝メダルのコンプリートはなんとなくしたいな~と思っている。その程度である。

 しかしながら、この場面をもしリアルタイムで観ていたなら、そんな私でも大興奮したことは間違いないであろう。うっかり野球を始めちゃったりとかしたかも。

↓江夏の21球




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