【フジフェリー おりおん】は、東京−松坂航路を運行していたフェリーである。
いろいろな運行会社を渡り歩いた珍しいタイプのフェリーで、【フジフェリー おりおん】として就航したのは1978年〜1980年のわずか2年間である。その前は「大洋フェリー」、以後は「関西汽船」が所有し、関西汽船所有時は船名も「にしき丸」と改名された。
この記念メダルは、珍しく出品者の方の思い入れが非常に深いものだったようで、概略ではあるがどのような物であったのかを説明する手紙が添えられて届けられた(元所有者の方がこのフェリーに乗っていた時期も上記の就航期間に見事にマッチした)。このようなことは初めての経験で、「モノに歴史あり」ということを改めて感じる出来事であった。曰く、「おりおんは子供の頃帰省の際によく利用していた。この記念メダルは、運行終了と聞いて、親に記念として買ってもらった物。掃除の際に出てきて、思い出の品なので捨てるに忍びなく、必要とする人がいれば譲りたいと思い出品した」とのことであった。値段は非常に良心的なものであった。
正直な話、すげー気楽に買ってしまったので、予想外の丁寧な話にビビった次第である。ただ私としては、とても名誉なことだな、と素直に感じた。出品者の方の想いにきちんと応えたい、大切にしたい、なんて殊勝なことを思ってしまったのである。思わず「大切にします」とわざわざメッセージを送ってしまったくらいである。
人が購入したメダルを人から買って、このように感謝されたのは初めてのできごとである。「思い出の品を受け継ぐ」なんてシチュエーションがよもや記念メダル収集で起ころとは思わなかった。が、よく考えてみれば、記念メダルとは、転売目的の物でなければ、基本的には思い出の塊であるといえる。その思い出を聞く機会というのがなかなかないだけで、聞けば、なんだかメダルの重みが増したかのようであった。単純にいえば、自分が購入したメダルと同じくらい、想いの詰まった一枚となったかのようであった。この記念メダルを見れば、自分で購入したメダルを見たときにその時のことを思い出すのと同じように、今回のエピソードと所有者の想いを思い出すのである。今回このような機会に恵まれたことは、自分にとっての目から鱗で、印象深く、また味わい深いものであった。大袈裟にいえば、思い出を受け継いだかのような想いである。
再三話題にしてきたが、記念メダルを人から譲り受けることには賛否両論ある。そして、正道は「自分の足で現地に赴き、自分で購入する」であることに異論はない。全くない。だからこそ、他者から購入した物は「邪道」と文句を言われる前に自ら名乗っている次第である。私もできれば自ら現地に赴き、あの青い自販機を発見した時の喜びと高揚感を感じたいと思っているので、人から譲り受けるーーましてや、ヤフオクやメルカリで購入することに拒否感を覚える気持ちは実は十分理解できるのである。ただ私の場合は、それ以上に茶平工業製記念メダルそのものが好きになってしまったので、「販売終了した物も手にしたい!」という想いが強くなり、現在のような形に落ち着いた。この想いや考えを受け入れられない人というのはやはりいると思うので、できればこのことについての議論には参加したくないというのが本音である。方向性は多少違えど、同じように記念メダルが好きな人たちなのに、どうしてかあの掲示板では他者を否定する方向にいきがちである(管理者不在のBBSとは得てしてそのようになりがちなのだが)。
最近、「自分が死んだら記念メダルをどうするか」ということが掲示板上で話題となったが、管理者不在で議論をすれば恐らく荒れることになるだろう。なぜなら正解はないからである(あるいは自分にとっての正解を誰もがもっている)。正解がなければ、建設的な意見を積み重ねていくよりも人の意見を否定することの方が多くなってゆくものである。例えば、私は個人的には自分が死んだら記念メダルどころか大切にしている車もマラソン大会の記録証もパソコン関連も全て捨ててもらって全然構わないのだが(死んでるし)、この意見に対して「資源の無駄」とか「遺された人が迷惑」とかいう話をされると、「メダルは別に処分してもらって構わない」という自分の心情とはまた別の話にすり変わってきてしまうのである。資源のことをいえば記念メダルに限ったことではなく車やらスチール棚やらにも言えることだし、遺された人の迷惑を考えるならばそれこそ記念メダルなんてむしろ取るに足らない問題になる可能性が高いし、「死後の記念メダルはどうあるべきか」という観点からは微妙にズレるというか、個人の「死生観」に関わってきて、「記念メダルをどうするか」という単純な枠には収まらない話になるのである。そしてこうした話の広がりは本意ではなかったのではないかと思うのである。しいていえば「自分が死んでも大切にして欲しいか」「死んだら処分されてもいいか」といったことくらいの話で、これとてどちらの立場にも言い分はあるだろう。そして、どちらが記念メダルに思い入れがあるか、記念メダル収集家としてのあるべき姿なのか、人の手に渡った記念メダルの行く末はかくあるべきなのか、といったことにジャッジを下す存在は不在なのである。そうなると、立場が異なる相手の意見を否定することしかできることがなくなる。そしてそれをただ繰り返すのみである。
「議論に勝っても、相手の自尊心を傷つけるだけである」
というのは、司馬遼太郎が自著の小説の中でよく述べていることである。たとえ相手が言い返せなくなったとしても、それは納得したこととは異なる上に、議論に負けた屈辱は、勝った方は出来事自体を忘れても負けた方は永遠に忘れないというのである。「私はこう思う」「自分はこう思う」程度に収めることができるならば、あの掲示板でのコミュニケーションも有意義なものとなると思うのだが、それがなかなか難しいことはBBSの歴史それ自体が物語っている(例;2ちゃんねるの大半のスレッド)。自分の意見との食い違いを指摘「しない」というのはかなり意識的な行為なのである。
他者との違いを認めることがいかに難しいかは、戦争がこの世からなくならない事実が如実に物語っている。しかし願わくば、記念メダラーたちそれぞれの微妙に異なる収集ポリシーは、互いに認め合うというか、せめて干渉し合わないものであって欲しいと思う。
というようなことを書くと、私が炎上しそうだよねという話。
「死後の記念メダルをどうするか」も、直接会って「あなたどう思う?」程度の会話で話す分には、全然荒れはしないと思うんだけどね〜。BBS上で自由にコミュニケーションを取るというのは実は難しいのである。「管理者対参加者」なら成立するが、「ご自由にどうぞ」だと価値観のぶつかり合いになるのが常である。
ーーというのもあなたの意見でしょ? と言われれば、もちろん返す言葉はないのであった。。。
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