晴耕雨読は楽なのか否か
【グリンピア’82 十勝博】とは、1982年7月〜9月にかけて北海道帯広市で開催された地方博である。80年代の地方博の中ではかなり残っている情報が少ない。
ネットで調べると、併催とされる「全国農業機械展」に関する情報の方がむしろ多いくらいであった。帯広市の「帯広の森」という場所にはこの地方博を記念したモニュメントがあるようでグーグルマップでその様子が見られるのだが、イベント自体は正直謎に包まれているところがある。
なんか0系新幹線新幹線が展示されてて(当時北海道には新幹線がなくて珍しかったから?)、その後同じ帯広市にある「ワインの国」という場所にぶつ切りにされて移設されたとか、そういう与太話的なものは散見されるのだが、肝心のどのような内容だったかについては謎である。こうなるとお手上げである。
ということで、ほとんど関係ない話で記事を埋めるしかない(大いなる開き直り)。
「十勝毎日新聞」という地方紙のコラムに、この地方博で当時事務局長をやったという人の文章があった。それによると、「開幕した日の午後から大雨、翌日も大雨で便槽にまで水が溜まりかき出しに四苦八苦した」みたいなことが書かれていて、スタートダッシュに失敗したとしょんぼりしていたそうな。
が。
併催していた「全国農業機械展」を見るために、農家の方々が自前の長靴を履いて入場してくれた、とのことらしい。なぜなら、農業は「晴耕雨読」——つまり、雨の日こそお休みで、雨だからこそ見にきてくれたのだ、みたいな話である。
いや、読書じゃないんかいというツッコミはさておいて、「雨だからこそ来てくれた人がいる」というのはなかなか面白い点である。まさに盲点である。
私も仕事で、農業とはいえないまでも家の庭よりは断然広い範囲の農場で農作物の管理をしていたことがあるのだが、雨の日はマジでやることがない。しょうがないからポットやセルトレーに種を植え付けたり合羽を着てまで収穫したりしていたのだが、「家でおとなしく本でも読んでいた方がいいな」と素直に晴耕雨読の真髄を体感したものである。YouTubeやネット動画全盛の現代社会なので「晴耕雨動画」であったが。
「雨の日だからこそ来られる人がいる」というのは「灯台下暗し」的な慣用句として成立してもよいくらい「盲点」を言い表していると思うのだが、そんな慣用句ないもんかね? 雨天是来客、みたいな。
そんなことよりも、晴耕雨読である。
晴耕雨読は現在では「悠々自適な生活」的な意味でも使われているが、これは農業が「おおらかな生活」をイメージさせるものと現代では認識されているからではなかろうか。それはつまり、「職業としての農業」ではなく、「定年退職後に趣味として取り組む農業」のイメージの方が現代人には馴染みの深い農業だからだと思われる。
しかし、無論その両者にはグランドキャニオンよりも深い溝がある。「仕事」と「趣味」というまったくの別世界である。
まず実際に農業を生活の基盤として営むのならば、永遠に、それこそ動けなくなるまで結果を出し続けなければならない。「今年は収穫がいまいちだな〜、がっはっは」では済まないのである。自ら育てた農作物によって食べる物には困らないかもしれないが、現代社会で生きていくにはもちろんお金が必要である。食べるだけではなく、売る分まで生産できて初めて生活は成り立つのである。そして農家が相手にするのは、サラリーマンの営業であれば詰まるところ相手は人間であるが、人間と違ってご機嫌を取りようもないお天道様である(いや、天気のようにコロコロご機嫌が変わる取引先担当もおりますが、実際)。そりゃ雨乞いの儀式もしちゃうよね。タイムリーな話題でいうなら「大嘗会」とかしちゃうよね。
そしてさらには、そこに「厚生年金」の文字はない。自営業者なので、国民年金のみで老後も生活しなければならない——つまり、ずーーーーっと農業を営み続けることを想定したような人生設計が必要となる(法人化するとか、個人年金で運用する場合とかは置いといて)。その生活は、つまりは働き盛りの20代、30代、40代であろうと、仕事に息切れし始めた50代であろうと、再雇用だ年金受給だと気が気じゃない60代であろうと、70代であろうとなんだろう、変わらずにずーーーっと「収穫量」という結果を出し続けなければならないというサバイバルな生活であるといえる。
そう、私の「晴耕雨読」のイメージは、強者だけが送ることを許されるサバイバルな生活のイメージである。実際、雨の日があまりにも続いたら「読書どころじゃねーし!!!」と気が気でないと思う。あまりにも日照りの日が続いてようやく降った雨ならば、心落ち着いてようやく本も読めるかもしれないが。
まあ私が管理した程度の農場であるならば、それこそタイマー設定した水やり機で給水できるので雨を待ち焦がれるという気持ちはいっさいなく、むしろ「雨が続いたらまじやべー」しかなかった。雨の日の読書は「じたばたしてもしょうがない……よね」という諦めのイメージですらある。
定年まで立派に勤め上げ、夫婦揃って国民年金受給&少なくても片方は厚生年金が満額近くは受給され、そこにプラスで十分な老後資金となる各種個人年金やら預貯金があって初めて、現代人がイメージする「晴耕雨読」な農家の生活を送る権利を得るのである。しかしそれは、本来の「晴耕雨読」とは違うような気がするのよね〜個人的には。
私如き小物は、所詮人に使われる生活が分相応である、という悲哀ね、これ。
記念メダルについて
シンボルマークとマスコットキャラのみを配した、非常にシンプルな昔ながらのデザインである。私、こういうの好きよ(なぜオネェ?)。
マスコットキャラクターはもうこれは完全に田中義剛ですな(断定)。
たとえ花畑牧場開業前であろうと、田中義剛ですよ。はい。
シンボルマークは車のインテークマニホールドがモデルですかね(という適当発言)。
見方によっては、このシンボルマークのデザイナーは線を七本描いただけで仕事を終えたのだから、前衛芸術とはげに奇々怪界なるものなり。線を描く手間量ではなく、線の引き方のセンスに仕事としての料金を払っているのだと思われる。【東京オリンピック】のシンボルマークの方が目分量での仕事量は多そうだね!
そのセンスがあるかないかが、量ではなく質で生活を営む資格があるかないかの分かれ目である。私にそのセンスがあれば、自分がやりたくない仕事はノーといえる人間になれたのになぁ……
という嘆きの多い、年末の記事でございました。ちゃんちゃん。
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