あの世界遺産でもかつて記念メダルの販売があった!?
ということで、「金色堂」で有名な中尊寺の記念メダルである。平泉の中尊寺金色堂には、「平泉の文化遺産」が世界遺産認定を受けた2011年に、東北地方の記念メダルを巡る旅の一環として訪れたことがある。もちろん当時はすでに記念メダルはなく、「世界遺産だから」という理由で訪れたわけである。が、後になって知ったのだが、別に「金色堂」だけが世界遺産になったわけではなく、「平泉」の仏教建築一帯が世界遺産になったわけで、そういう意味では全然「世界遺産」を回りきれていなかった。まあいいんだけど。
「金色堂」で驚いたのは、てっきり「金閣」みたいにきんぴかの建物が立っているものだとばかり思っていたのが、目の前に立つと至って普通の鉄筋コンクリート造だった点である。かと思いきや、その鉄筋コンクリート造の中に、さらに巨大なガラスケースで覆われて、きんぴかに輝く「金色堂」があったのである。つまり、建物の中に建物があるのである。バッグインバッグみたいな。
こうなってくると、むしろ「金閣」は大丈夫なのか? という疑問が生じてくる。めちゃくちゃ雨ざらしだけどそれでいいのか、と。無論大丈夫なわけはなく、金箔張り替え作業は継続的に必須となっている。ちなみに三島由紀夫の『金閣寺』のモチーフとなった史実「金閣寺放火消失事件」以前の金閣は、金箔はほとんど残っておらずボロボロであった。
それが、再建と同時に金ピカになって蘇った。言ってみれば、放火されたからこそ、現在の金ピカきらびやかな金閣になったといっても過言ではない。そう考えると結構複雑である。なぜなら、私は間違いなく、現在の金ピカ金閣の方が圧倒的に、絶対的なまでに好きだからである。
金閣放火の犯人は金閣のある鹿苑寺の徒弟で、その動機は今もってよくわかっていない。三島由紀夫は『金閣寺』のなかでその動機を、簡単にいうと理想と現実のギャップ(自分の頭の中の完璧な金閣と現実のボロい金閣とのギャップ)によりあーだこーだあって放火した、みたいな設定にしている。もちろんそんなわけはなく、きっと聞いてガッカリするような超くだらない理由で放火したと思うのだが(なんとくなくムシャクシャして的な)、その放火の結果、本来のきらびやかな姿を取り戻す形で復活したのだから、皮肉なものである。
話がだいぶそれたが、金ピカの建物というのは、生で見ると想像よりも感嘆するものである。写真で見ると「悪趣味だな〜」と思っていても、実際に目にすると圧倒的な迫力があり、「すげー」と素直に感じる。中尊寺金色堂も、ガラスケースに入れられているとはいえ、少なくても拝観料だけの価値は間違いなくあるので、ぜひ一度はご覧いただきたいものである。
で。
記念メダルとなっている源義経と武蔵坊弁慶であるが、ご存知の通りのお人たちである。なぜこの記念メダルに描かれているのかというと、超簡単に言えば、源義経は奥州藤原家の藤原秀衡と縁が深く、その藤原秀衡がじいちゃんより受け継いでいたのがこの金色堂なのである。義経は兄で征夷大将軍の頼朝と対立した時に、藤原秀衡を頼って平泉に来ており、秀衡も頼朝との対立を覚悟して義経を匿った。が、秀衡の死後、跡を継いだ泰衡が頼朝に屈して、義経を討ってしまった(衣川の戦い)。そのとき、弁慶は敵をせき止めるように、あるいは義経を庇うように立ったまま死んだので、「立ち往生」という言葉生まれた。また、後の世は義経に同情的だったので「判官贔屓(弱い方や負けている方を味方すること)」という言葉が生まれた(判官は義経のこと)。日本人はよく判官贔屓だと言われるが、こんな大昔から判官贔屓なのである。
金色堂にはこの藤原秀衡のミイラが存在する。そのため、どうして死んだ(脊椎カリエス)とか何才くらいで死んだとかがわかっていて、研究の上ではかなり貴重な存在である。が、まさか千年の時を経て(というか800年特別大祭なので800年)、自分の亡骸を見世物にされるとはこれっぽっちも思っていなかっただろうから、もしかしたらミイラ化させたことをあの世で後悔しているかもしれない。エジプトのミイラであっても他のミイラであっても、まさか写真に撮られたりCTスキャンされたりするなど微塵も想像できなかっただろうから、そう考えると、私の亡き後も、1000年くらいの後に、現在の技術では全く想像もつかないような技術で研究の名の下に死体を弄ばれるかもしれない。
……すんません、そんな偉くなれません。無用な心配でしたとさ。ちゃんちゃん。
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