@入場してすぐスロープの左手側(出口の前。構造上、順路を辿ると最後に到着するようになっている)(2020.8現在)
備考:受付の人に言えば記念メダルの購入のみも可能であるが、入場料は220円だし、せっかくなので見学していきましょう!
手袋を買いに真夏に訪れる
【新美南吉記念館】は、新美南吉誕生の地である愛知県半田市岩滑(やなべ)にある。名前からはいかにも儲からなそうなB級感が溢れまくっている施設なのだが、訪れてみるとびっくりする。まず建物どこやねんと思う。ナビで案内された場所には芝生が広がるばかりなのである。駐車場から見える光景はただの芝生広場である。
クルマから降りて少し進むと、やがてその全容が見えてくる。見えてきてなお思うのは「建物どこやねん」なんだけども。
この日はニュースになるほどの猛暑日。
芝から立ち上る地熱が半端でないほど私の体を蝕んでゆく。緑溢れるコンセプトが仇となっていた(文句言ってないっす!)。クソ暑い(文句じゃないっす!)灼熱地獄や!(褒め言葉っす!)
入場するとすぐに、名作『てぶくろをかいに』に登場するシルクハットが看板の帽子家が現れる。
当然のことではあるが、新美南吉作品について何も知らずに訪れるよりも、多少なりとも——少なくても『ごんぎつね』くらいだけでも読んでから訪れた方が数倍面白くなることだろう。しかしそんなことも言ってられない忙しい現代人のあなたのために、この施設は入り口早々にちゃんと用意してくれているのである。「ごんぎつね」ダイジェストを——
これだけではなく、隣には新美南吉作品の絵本がずらっと並べられていて、入り口にてある程度の基礎知識を得ることが可能となっている。なんと親切設計なんでしょう。入場料220円とは思えない気の利いた施設である。
そんな感じでスタートし、南吉の生涯について順番に学んでいくことになる。
後述するが、私は文学部国文学科という世の中に最も貢献しない学問を学んだ人間であり、卒論のゼミでは新美南吉をテーマに選ぶ同級生もいた関係で、それなりに作品や作者については学んでいる。それもあって、展示がとても面白かったのでかなりオススメ度合いの強い文章が以下に続くことになるが、果たして文学そのものに興味がない場合に同じテンションで楽しめるかは正直微妙である。なんなら愛知県民や、もっといえば半田市民ですら楽しめるのかは微妙である。ゆかりや由縁よりも、どちらかといえば「文学」というものに興味があるか否かが鍵となる施設であるように思う。
しかもまた「児童文学」というのがなかなか難しいところで、児童文学を読む世代はこのような記念館をそもそも楽しめる成長段階にはないことが多く、大人になって楽しめる教養が身についたときには児童文学への興味が薄くなっているという、にっちもさっちもミッチーもサッチーもというところでありまして。
司馬遼太郎記念館とか夏目漱石記念館とか池波正太郎記念館とかとはまた違った運営の難しがあるような気がいたしました。まる。
それほど大きくはない施設なのだが、朝一番に乗り込んで誰もいない中じっくりと見学したので、気づいてみれば1時間半くらい滞在していた。興味がない人が駆け抜ければ恐らく10分で終わる規模である(そして入場料220円だからそんなに気にしない)。
途中、朝一番だったこともありちょっと催してきたのでトイレに駆け込んでみれば——
個室を覗くごんに遭遇いたしました。シュールぅぅぅぅぅぅぅ!
新美南吉と私
新美南吉といえば『ごんぎつね』である。
『ごんぎつね』といえば、小学校の国語の教科書において定番ともいえる教材である。先生が朗読をして、生徒を何人泣かせたを競い合うような文化が存在するほどである(実話)。
私は正直この『ごんぎつね』という物語は好きではない。というか、扱われ方がちょっとどうかと思っている。この作品は大人になってからきちんと読むと、すれ違いとか誤解とかそれによって起こる悲劇とかいった薄っぺらい話ではなく、もっと生々しい描写がかなりあるのである。例えば、ごんが自分がやっている償い行為が評価されないことを不満に思う場面とか。
ただそういったことにはあまり学校教育ではふれない印象がある。低年齢の児童が対象であるからかもしれないが。
正確な時期は覚えていないが、10年くらい前に「ごんぎつね論争」みたいなことがネット上で騒がれたことがあった。簡単にいえば、小学生の女の子が「ごんは撃たれて当然だ」みたいな感想文を書いたことが2ちゃん界隈で話題となり、一時期盛り上がったのである。この話はこの話で別に良いのだが、私の一番の不満は「本当に教科書に相応わしい教材なのか?」という点である。この話は長くなるので以下省略。
そんなこんなで私は『ごんぎつね』に対してもはや憎しみにも似た想いを抱いている(新美南吉にとっては完全にもらい事故だけど)。しかしながら、同じきつねを題材にした作品である『てぶくろをかいに』はかなり好きな話である。
『てぶくろをかいに』は幼い頃に母親に買ってもらった絵本として実家にずっと置いてあったので、そのせいもあってかとても良い印象をもっている。が、今回訪れてこの本を再読してみてびっくりした箇所が一つあった。
子狐は母親の言いつけを守りながら、一人で街の帽子家までてぶくろをかいに行くのだが、母親が付いて来なかった理由が
怖くて街に入れなかったから
というもので愕然とした。つまり、「自分は怖いから、一人で行って来い」と可愛い我が子に言い放ったのである。毒親やん。
しかし話はもちろんそう単純では無い。そもそもなぜ手袋を買いに来たのかといえば、我が子の手が雪に触れて霜焼けを起こさないようにと心配したが故である。つまり、我が子のためなのだ。
この相反する母親の子への愛はなんなのか——そういうことを考えだすと、国文学というこの世で最も世の中のためにならない学問では、たいてい作者論へと行きがちである。つまり、「新美南吉は4歳で実母と死に別れ、その後養母に育てられた」みたいな生い立ちと絡めて考えだすのである。新美南吉の中には実母と養母との間に葛藤があって〜的な。
しかし私はそういったつまらない読み方は本当に嫌いなので、単純に、ありのままに書いてあることを味わうことにしている。つまりこの場面の場合、
お母さん、クソやん
ということになる。いや、お母さん、クソやん。まじで。その行動原理はちょっと理解不能である。まる。
で。
私の中で印象に残っている場面といえば、もちろん「間違えて狐の手を出してしまったにも関わらず、帽子屋の店主が手袋を売ってくれた」というシーンである。このシーンは実に文学的要素に満ちているといえる。
物語をうろ覚えの人やあっさりとしか読んでいない人は、上の説明をされると単純に「帽子屋の店主はなんて心優しい人物なのだろう」みたいな話でまとめてしまうだろうが、ここはそんなに単純な話ではないのである。
まず、帽子家の店主は、差し出された狐の手を見て「狐に化かされる」ということを警戒をして、「先に金を払えば売ってやる」と述べる(そんなぞんざいな言い方じゃないけど)。それを聞いた子狐は素直に母親から渡された白銅貨を差し出す。それを受け取った店主は、すぐには信用せず、白銅貨同士を擦り合わせることできちんとした金属であることを確認し、偽物ではない確証を得た後、ようやく子狐に手袋を渡す。
——この一連の流れは子狐の素直さとともに、帽子屋店主の「価値基準の独特さ」を表していて、その点が「文学研究」というこの世で最も役に立たない学問(くどい)の探究材料となっている。「金さえ払えば相手が人間でなくても別に良い」という価値観が、果たして人間的な優しさから来るものなのかどうかというのはとても微妙な点であるからだ。ただ一方で、相手が狐だからといって変に誤魔化したりせずに、きちんとした商品を手渡すという職業人としての誠実さをも同時に描いている。つまり
こいつ、一体なんなんだ?
という謎深き人物なのである。我が子を一人で危険地帯に行かせるどこかの母親とはまた方向性の違う謎さである。
こうした流れの中で、物語のラスト、母狐が「ほんとうに人間はいいものかしら」と2回呟いて幕を閉じるのは、かなり含蓄がある。私のTwitterの投稿内容とは比べるまでもないほどの含蓄あるつぶやきである。
まあお前(母狐)が言うなって話ではありますが。
間違えて狐の手の方を出してしまった話をしながら「人間は優しかった」と述べる我が子の言葉に対していろいろ悶々とするわけである。悶々とするような場所へ我が子をやっておいて(しつこい)。
「ほんとうに人間はいいものかしら」という揺れ動く母親の気持ちを表している疑問は、そのまま帽子屋店主の物語内における人柄を象徴している。先にも述べたように、善意や寛容さによって子狐に手袋を売ったのか、はたまた「出すもの出すなら売るし、出さないなら売らない」という商売人としてのある種ドライともいえる主義から手袋を売ったのかは、最後までわからない。というか、本当に素直に読むならば、後者であるように読めるのである。単純に読めば、店主にとって相手が「人間か狐か」であることより、「金が本物かどうか」の方が重要であるかのような商業主義の権化的な描かれ方をされている。他人への不干渉を美徳とする東京砂漠のような世界なのである(田舎者の偏見)。
それにも関わらず、読後の印象としては、不思議と「帽子屋店主のあたたかい対応」みたいな余韻があるのである。事実、大人になって改めて読むまで、幼少期の頃から私の中に残っていた物語の印象は、「狐にも手袋を売ってあげた優しいおじさんの対応」というのが最も強いものだった。差別しなくて優しいな、みたいな。
まあこういう揚げ足取りみたいなことばかりしてると人間性を疑われてしまうのでここまでにしておくが(ただ文学研究とは得てして揚げ足取り的なことを延々と語り合うものである)、この帽子屋店主の人間像の謎さが、実はこの物語の魅力の根幹を成しているのではないかと思う次第である。
ミステリアスな人物は、いつだってモテる。
記念メダルについて
記念メダルは順路を辿って行き出口を出るとお目見えするようなバツグンの配置となっている。が、記念メダラーたるもの、何よりもまずメダルを購入しなければ落ち着いて何も見学できないのがSA・GAであるといえよう。
いまとなっては生存率もだいぶ低くなってきたダイヤル式刻印機なので、刻印する方は心して30円を入れよう。
久しぶりにダイアル式刻印機と出会ったのでじっくりと観察してみたら、いままでまったく気がつかなかったがローマ字表が付いてたのね〜という新たな発見があった。
デザインとしては、このモダンな建物の外観をデフォルメして、推定ごんだと思われる狐が配置されている、とてもわかりやすいものになっている。死にゆく運命にあるキツネの、最後の笑顔である(大袈裟にいうと嫌味に聞こえる情報)。
オーク系のメダルのような派手さはないが、よくよくじっと見ると、施設の概要を一枚にギュッと凝縮していて、なかなか味わい深いデザインである。
こういうタイプのメダルって、最近発売されなくなりましたな〜
(過去記事)
新美南吉は愛知県の半田市出身ということで、ここ【新美南吉記念館】は半田市に存在する。
意外となんだかシャレオツな建物で、綺麗な芝生などもあり、家族連れのための公園としての機能も果たしている。家族連れとはすなわち、「この人とこの人がエッチをしてこの子が生まれました」ということを周囲に自慢して歩くグループのことである(卑屈兼最低な価値観)。
そんな【新美南吉記念館】の新美南吉とは、有名どころでは『ごんぎつね』の作者として知られている。私は全然『ごんぎつね』が好きではなく、特に小学校教師がこれを朗読してクラスの児童を泣かしたことを自慢する風潮が大嫌いである。泣かしたからなんなんだと。といってもこのことは別に『ごんぎつね』自体に責任はないのだが。作品自体のことをいえば、私はこの話を初めて聞いたときから、「まあごんが悪いんじゃね?」と思って、全然泣けなかったのである。先生が力を入れて朗読したのに全く涙を流さないかわいくない小学生だったといえる。そして「でもごんが悪いよね?」と平気で発言してしまうような憎たらしい小学生だったのである。先生は私のことが嫌いであったことだろう。
『ごんぎつね』のストーリーの源流は、『オオカミ少年』に通ずるものがあると考えている。いつもいたずらをしていたごんが、改心して食べ物持ってきてあげたのに、いたずらしにきたと勘違いされて撃たれるわけだが、「オオカミが来る」といつも嘘をついてイタズラしていた少年が本当にオオカミがやって来ることを伝えても誰も信じてくれないのと同じで、「信用を失うとこうなる」ということの寓話であると思っていた。小学生の私は「ごん、かわいそう」と隣でしくしく泣いている女の子の言葉に驚きを覚えた。「えっ!? そういう見方なの!?」と。しかしこれは、私の方が少数派であることは教室中が物語っていた。
つまり、私にはこの話の何が良いのかさっぱりわからないのである。記念メダルに描かれている狐はおそらく「ごん」であると思うのだが、僕にはきみの良さがさっぱりわからないよ、ごん。私は今までやりたい放題やってきておいて、ある年齢以上に達したらまるで今までのことは「若気の至りで、みんな良い思い出」みたいに都合よく振り返り、家族思いの善良なパパであるかのように振る舞う元ヤンキーが大嫌いなんだよ。自分でやったことの報いは必ず受けて欲しいし、人を不幸にしたのに自分は幸せになるなんていう矛盾が許せないんだよ。だからごん、君が撃たれてしまったのは仕方がないと思うんだよ。人の母親の今際の際のために捕獲した魚を、己の快楽心を満たすためだけにいたずらに台無しにした所業は、罪深いーーとても反感を買いそうな文章である。
さて、私がここを訪れたときは、学芸員による案内を受けた。新美南吉は安城市の女学校で教師をやっていたのだが、その学芸員の説明によると、自分のクラスで一人特別好きな子がいたらしい。学芸員はさらりとウケを狙うように言っていたが、教員の多発する不祥事を鑑みると、今も昔も問題はそう変わらないと断ぜざるを得ない。南吉が担任したクラスの集合写真の前で、学芸員が「南吉の視線の先を見てください。ほら、○○さんを見つめているのがわかります」と言って大爆笑をとっていた。集合写真の撮影でも見つめてしまうほど熱烈だったらしい。ということにみんなウケていたのに、現代の教師の不祥事には断固として批判するのはなぜなのでしょう(もちろん断固として批判すべきであるという観点で言っている)。ちなみに、これはその学芸員の鉄板ネタらしく、その後の館内ツアーでも、同じ写真で同じことを言い、同じように大爆笑をとっていた。これがプロか!? と思った。
新美南吉の著作には他に、有名どころで『てぶくろをかいに』という作品がある。私はうだつがあがらずケツ拭く役にも立たないことで有名な国文学科出身なのだが、ゼミの中に、この『てぶくろをかいに』で卒論を書いた者がいた。雪の降る日にきつねの子供が母親のおつかいで街まで手袋を買いに行くという話なのだが、雪が降って寒いので、小狐が母親に「お母ちゃん、お手々が冷たい、お手々がちんちんする」と訴える場面がある。ゼミ発表のとき、私の隣に座っていた友人が発表者に対して「ちんちんってなんですか?」と真面目な顔で質問した。あきれたように笑う発表者に対して友人は続けざまに「冷たいなら、普通『じんじん』ですよね? ちんちんって何ですか?」とたたみかけるように言った。動向をうかがっていたゼミの先生はそれを聞いて発表者に対して「で、なんなの?」と追い討ちをかけるように質問を重ねた。かくして「ちんちんとは何なのか?」という議題がゼミ発表の場に正式に挙がったのである。
四年制大学の「ゼミ」というれっきとした研究の場で、「ちんちんとはなんなのか?」ということを真剣に検討する国文学科という学部は、本当に世の中に全く貢献できない学部だと思った。
余談だが、「ちんちんとは何ですか?」と質問した友人が、今度結婚する。その結婚式の余興を私は任されているので、どうにかして結婚式に「ちんちん」という言葉を挿入したいと企んでいる。実に楽しみである。
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