

コロナ禍での国体
※この記事は2020年8月に執筆したものです。
2021年の9月には、三重県にて第76回国民体育大会「三重とこわか国体」が開催される。記念メダルにあるとおり、三重県での開催は第30回に続き2回目の開催となる。しかしながら、この国体開催はかなり揺れている。というのも、前年(2020年)の鹿児島国体の延期が決まったからである。理由はもちろん、新型コロナウィルスによるものである。
結論的には「三重国体は予定通りに実施する」ということが2020年の7月に確認された。が、もちろんそれが本当に実現するのかどうかは、現時点では誰にも分からないことである。延期された【東京オリンピック2020】がどうなるかすら不透明なのだから。あくまで「延期することだけが決まって代替日程は宙ぶらりんになったままの鹿児島国体が開催されなくても、三重国体は予定通りの時期に実施する。鹿児島国体の開催が三重よりも後になってもしょうがない」という意味合いが強い決定であると思われる。
多くの者が頭の中でなんとなく考えていた「この頃にはどうにかなってるっしょ!」(「この頃」は人によって微妙に異なる)という見通しがまったく甘かったことが、現在の「第二波到来」の流れから明らかになってきた。まるでパソコンの性能が毎年定期的に向上されていくのと同じように、特に根拠もなく「良くなっていく」と思っていた見込みが甘かったことを突き付けられた人類である。パソコン性能のアップデートだって、開発者たちの並外れた努力がそこにはあるはずなのに、私たちはそれを意識することもなく「パソコンの買い時がわからない。だってちょっと待てばより良いものが出てくるんだもん」などとうそぶいている。現代人には「待てば待つほど良くなる」という意識がある。昭和レトロへの懐古主義だって、実際にあの頃に戻りたいと考えている人はごく僅かだろう。現代文明の中で趣味的に味わうから良さを感じるのである。
閑話休題。
残念ながらコロナ禍の世の中は良くなっていくこともなく、むしろ悪化しているとすらいえるかもしれない。しかしながら、世の中の流れは「良くなっていくこと前提」で動いており、その結果の一つの形が「GOTOキャンペーン」の迷走として現れたともいえる。
良くなっていくだろう、発展していくだろう、進化していくだろう――と根拠もなく考えることは、もはや人類に植え付けられた性癖の一つなのかもしれない。多くの者は、そこにあるはずの誰かの努力や困難に想いを馳せることはなく、あるのは、もし思ったとおりの成長が実現できなかったときに抱く不満ばかりである。
つまり、人類にとって「成長することは当たり前」となったのである。ビジネス系の自己啓発本に腐るほど書いてある——現状維持は退化と同じである、と。
何が言いたいかというと、来年の9月、無事に「みえ国体」を開催するには、人類の成長が絶対条件となっているということである。それがあるはずだと根拠もなく考えているからこそ、来年の予定を確定するわけなのだから(もちろん、中止にするわけにはいかないという大人の事情もあるでしょうが〜)。
それが悪いと言っているわけではない。むしろ、私も漠然とそう考えている。「来年の今頃には今よりよっぽど収まっているだろう」と、第二波到来の真っただ中にいる現在にも関わらず、間違いなくそう考えている。「そう甘くはないかもよ~」と口では言いながらも、心の底では、未来は今より良くなっていることを前提に、この先のことを思い描いている。ワクチンが開発される未来を思い描いていない人間などいないのではないだろうか。WHOが「ワクチンの開発は無理かもよ〜」と述べたことがネットニュースに流れたところで、それを心の底から信じているのは、もしかしたらワクチン研究に携わっている専門家たちだけかもしれない。
大多数の人間は、現在の状況を「ワクチンが開発されるまでの辛抱だ」と考えて、耐え忍んでいる。逆に言えば、世の中がこのニュースによって絶望していないのは、耐え忍ぶうえではあってはならない話だからだ。あってはならないのでなかったことになっている。アメリカが見限った機関がまた何か言ってたわ、と。
コロナの話を絡めずに語る未来の話は、いつだってコロナの脅威のことはどこかに置いてきてしまったかのような予想図ばかりである。テールランプを5回点滅させて帰路につくような未来ばかりを思い描くのが人間であると言える。
——と、上記でグダグダ語っていることは、「人間は、未来は現在よりも良いものだと安易に想像するが、そこに至る他人の努力を想像することはほとんどない」ということを出発点にした個人的な思考実験の過程であり、いうなれば気持ち悪い一人語りの記録である。ただそれだけのものであり、悪意もなければ他意もない。
閑話休題2。
普通に考えれば、オリンピックがもし中止となると、世の中の空気的にその後すぐの9月に開催予定の国体が実現できるはずがない。逆に言えば、オリンピックが開催されれば、続く9月の国体開催は、どういう状況になっていようがとりあえずは断行できる空気が形作られるだろう。
三重県にとって、【東京オリンピック2020】開催の有無は、実は東京につぎ大きな問題であるといえるのかもしれない。
古き良き国体
第30回大会のスローガンは「たくましくあすをひらこう」という、時代を感じさせることこの上ない、現在の視点でみると野暮ったさの極地のようなものである(とんでもなくひどい言い草)。もしかしたらこのスローガンに決まった背景にはさまざまなストーリーがあったのかもしれないが、なにも知らずに今聞くと、聞こえの良い言葉を並べただけの中身のない空虚な言葉である(恨みでもあるかのようなひどい言い草)。たくましくあすをひらくってなんやねん。開いて良いのはポンキッキくらいなものである。
大会当時の様子は三重県の公式YouTubeチャンネルが動画をアップしている。
個人的に感心したところとしては、当時の映像なので当然ブラウン管サイズのアスペクト比でありながら、最後に挿入した「2021三重で国体開催」というフリップも当時のアスペクト比のままでちゃんと制作している芸の細かさである。この動画が内製されたものであれば、編集された方は、細かいところまで気が利く有能な方であると思われる(逆にこの動画がもし外注による製作のものであったら税金の使い方としてちょっとどうかと思うレベルではあるが)。
この大会でももちろん開催県である三重県が総合優勝を果たしている。当ブログにおいて何度も取り上げてきたが、国体が抱える病理の一つに「開催県が優勝する慣例」というものが存在する。国体の準備とは、もちろん開催に向けた競技場や交通網、道路の整備といったインフラ構築やボランティア等の人手の手配が主だったものであろうが、加えてそこには「総合優勝をするために数年前から有力選手を開催県に住まわせる」ということが含まれる。それには当然、仕事の斡旋や衣食住の負担など、多大な人件費が割かれることとなる。魅力的なオファーでなければ移住などしないのだから、金銭的に有利な条件が出されるのは当然といえば当然であると言える(住民票を移すだけではダメとされたのは割と最近だけれども)。ちなみにそういった選手は「ジプシー選手」という蔑称で呼ばれることがあるが、裏を返せば競技選手としての実力が本物であることの証左であるともえいる(国内においては、だが)。
昨今において国体が盛り上がらないのは、個人的にはプロスポーツの興隆があるのではないかと考えている。レベルの高い「エンターテイメントとしてのスポーツ」は、プロ野球やJリーグをはじめ、だいぶ文化として根付いてきた。そうした中で主要なスポーツのトップレベルの大会はテレビ観戦も可能となったため、現在ではアマチュアの全国大会を観戦するよりもより高レベルなプロの試合を観る方がはるかに敷居が低いのである。そう、国体を観戦するのは、とても敷居が高いことなのである。どこでやっているのかもよく知らないし。
ぶっちゃけ、国体出場に縁があるほどのトップレベルの競技者とその関係者以外、ほとんど興味関心はないだろう。つまり、オリンピックには出られないけれどもその競技の中では国内トップレベルに君臨するという層の競技者にとっての大会であるといえる(長い)。一言でいえば、国の代表にはなれないが、県の代表なら狙えるかもしれないという者達のための大会なのである。
まるで揶揄しているように聞こえるかもしれないが、私はサッカーをやってきたので、素直に「県選抜」という響きにはひとかたならぬ憧れをもっている。県選抜のジャージやユニフォームをこれ見よがしに来てくるチームメートを超羨ましいと思っていた。
そういう意味では、国体は競技者にとってはとても大事な大会であることは理解しているつもりである。費用対効果が薄く、上記のような闇があるのでその在り方には疑問をもっているが。
だから願わくば、変なお金をかけずに、本来あるべき姿の結果が出るような大会運営であったならな〜と思う次第であるわけです。本来あるべき姿というものがどういうものなのかというとまた難しいのだが。ただ少なくても「開催県が必ず優勝」というのは、あるべき姿ではなく非常に歪な文化であることは間違いなく言えることだと考えている。はい。
記念メダルについて
どっちがおもて面か不明なのだが、ここでは仮にシンボルマークの方をおもて面と定義する。

で。
恥ずかしながら最近になって初めて気が付いたのだが、各国体のシンボルマークは、なかなか面白い取り組みをしている。
まず、元となる国体のシンボルマークが日本スポーツ協会から示されている。

で、「開催基準要項」の細則にある「大会の標章」という項目にて、「国民体育大会マークを含めたシンボルマーク(図形)」を使用するという項目があり、これを忠実に守ると、以下のようなことになる。


なんとも記念メダル映えしそうなラインナップではなかろうか。ズラっと並べてみると、これがすべて記念メダル化されていたらアルバムがさぞ壮観な光景になるだろうな〜というおよそ実現不可能なことを夢見る記念メダラーである。
土台となる国体シンボルマークをうまく生かそうしているデザインから、ルールで決まってるからしょうがなくおまけのようにポツンとただ置いているかのようなデザインまで、実に様々である。その中で、この【第30回国体三重国体】のシンボルマークは、結構土台を生かしたデザインであるといえる。

地味だけど悪くないと思います。地味だけど。
まあ時代的にもこういったシンプルなデザインが好まれたのではないかと思われる。くどいようだが、私は嫌いではない。記念メダルにぴったりである(時として悪口になり得る言葉)。
こうなってくると、他の国体メダルもますます集めたくなってくるのが人情というものですな!(他の国体メダルは索引から見てみてね!)
裏面に関しては、「いつもの方」のご登場である。


いつかこのお方で特集ページを一つ書いてみたいものである。彼のストーリーを勝手に考察するみたいな構成で。あと、なぜ角刈りなのかについて。

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