【販売場所】
@1階ミュージアムショップの入り口近く
備考:1階にミュージアムショップはあるのだが順路としては一番最後に辿り着くのでなかなか手に入らなくてソワソワしちゃうの。
私と小田原
のっけから全然関係ない話で恐縮ですが、小学校のときの同級生で「小田原さん」という女の子がおりまして。小学校卒業後も中学、高校まで同じ学校に進んだという縁があったのですが、この人が超絶美人だったのです。だから私は「小田原」と聞くと、どこか心がソワソワしてしまう人生を今なお送っております(驚くほど全然関係がない)。
※書きかけの記事
記念メダルについて
(過去記事)もうゾウはいなかった
小田原城に初めて訪れたのは、まだ記憶が定かでない4、5歳くらいの頃と思われる。私は出身が神奈川県なので、恐らく家族で訪れたものだと思われる。
その記憶では、とにかく「象に向かってパンを投げていた」というのが強く残っている。象と客との間には深い溝が設けられていて、子供の肩では象まで届かないのだが、その象は溝に落ちた物もその長い鼻を使って取って食べてくれた。「象の形をしたパンを象に食べさせる」というシュールな行為に熱中したのをよく覚えている。また、うっかり落としたパンにハトが大量に群がり、象をリンチするかの如くつつきまくって食べていたことも覚えている。
私の記憶の中では、「小田原城=象」だったのである。
だから、小田原城を訪れたときには、象が見られるものだとばかり思っていた。そして、パンを投げようと思っていた。ハトにはやらないでおこうと思っていた。
しかし、象はもう、いなかった。
象のウメ子は、2009年に亡くなったらしい。
このことは、ドライで有名な私の心にも、言葉にならない波紋のようなものが広がったことを覚えている。簡単に言えば「歳をとる」ということに対する想いなのだが、当然のことながら、私が見ていないものや知らないところでもそれは同じように起こっているということに、何とも言えない気持ちになった。
よく「人々の心の中で生き続けている」という言葉を目にするが、私はそれを詭弁だと思う気持ちが強い。しかし、その「心」の当事者である方の、「忘れたくない」「風化させたくない」という気持ちはとても理解できる。忘れてしまったら、本当に終わりなんだな、と。
「臥薪嘗胆」という故事は、元々は、「人間はどんなに辛いことでも忘れてしまう」という人がもつ性質から生まれたものである。人間は忘れてしまう存在であるから、記念メダルを買い、刻印をする。メダルに、思い出を刻み込むのである。
この記念メダルには、この時にはもういなかった、私と象との思い出が刻まれている。投げたパンが象まで届かなかった私と、それを拾って食べてくれた象との思い出が遥かなる時を越えて刻み込まれている。
小田原城の中のことは全然覚えてないだけに。
旧メダル記事
この記念メダルの製作時期は不明だが、現行メダルと同じ31ミリサイズ、かつ、裏面にぶつぶつがないので、そこまで古くはないと思われる(31ミリメダルも、途中までは38ミリメダルのような縁取りのようなぶつぶつが巡らされていた)。この辺の記念メダル変遷の事情は、恐らく記念メダラーのみなさんが忌み嫌うであろう「刻印入り」の記念メダルを購入できると、おおまかな変遷の時期が研究できるので、個人的にはそうしたメダルの方が望ましい。
さらには、このメダルのように、31ミリ、かつ、現行メダルに近いデザインのメダルであっても、地肌の造りが異なる時期が存在する。現行メダルはピカピカの地肌がベースとなっていて、裏面のザラザラの部分に刻印をする仕様となっている物が多い。一方、この記念メダルが、全体のベースが現行の刻印面のようなザラザラした地肌となっている。このタイプの旧型メダルも実は数多く、いつごろから製造がはじまり、いつごろから現行の形となったのかは、研究が待たれるところである。この「メダル造形の変遷」を詳しく考察したページは、本家の茶平工業ホームページを含めいまだ目にしたことがないので、いつか研究を深め発表したいと考えている。しないかもしれないけど。
このメダルと現行メダルのとの相違点は先述のような地肌の違い以外はほとんどなく、文字のフォントも同じであるように見える。想像でしかないが、金型は同一の物を使用したのではないだろうか。つまり、使用している地銀のみが異なる(もしくは磨いているか磨いていないかの違い)と予想する。そのあたりのことを研究しても楽しいかもしれない。社会見学的なことやってくれないかなー、茶平工業。
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