京都府【二条城】 記念メダル

 【二条城】といえば、中学校のときの修学旅行で、班別自由行動のチェックポイントとして訪れた記憶がある。中学生といえば不要なくらい無意味に多感な時期である。班は男女の比率が半々であったのだが、「男子と女子が別々に行動して、チェックポイントで合流する」という班が多数存在し、その日の夕食時、先生たちがキレていた。私たちが二条城に到着してまず最初に言われたことが「お前ら、女子は?」であった。同じ班の女子はすぐ後ろにいたのだが、そんなことを血気盛んに訊いてきたことから、相当御立腹であったことがうかがえた。しかし当時の私の感覚からしたら、「男子と女子が別々に行動するなんて余裕で予想できるでしょ」と思っていた。そんなこと簡単に想像できるのに、何をそんなに怒っているんだと心底不思議であった。

 しかし、年老いた今、先生方の感覚がなんとなくわかるようになった。

 まず、自分たちの言い付けを守らない班がそんなに続出するとは想像だにしていなかったのだろう。そして、「男子と女子がなぜ別々に行動したがったのか」が理解できないのだと思われる。

 その二つの事柄の答えは、両方とも「中学生だから」である。

 ルールを守らなかった班が続出したのは、それを率先したグループが存在する。つまり、「俺たちだけで集まろうぜ~」と呼びかけた者が存在するわけである。もちろん、いわゆる不良のリーダー格である。

 彼の元に集まった者たちの心中は様々であっただろう。陽気にその誘いに乗った者もいれば、内心面倒、嫌だと思っていても逆らえなかったという者ももちろんいるだろう。そういった、中高生特有のヒエラルキーや人間関係を、意外なほど、毎日接しているのに、先生たちは理解していないことが多い。「嫌なら断ればいいだけだろう」と平気で言っちゃったりするわけである。こういったことは、高校生よりも中学生の世界の方が、より色濃い。先生たちが大声で叱り飛ばしたところで、力に抗えずに従った者たちはまた同じ道を辿るだろう。大人が忘れてしまったエネルギーの体動の中を、中学生は生きているのである。

 大人の思惑と、中学生たちが形作るヒエラルキーとは、いつもズレがある。

 また、男子と女子がなぜ別々に行動したのかも、結局はこうした世界の中での出来事なのである。「男女別々に行動したい」と言い出す者がいたら、「自分は一緒に行動したい」とはもう言えない世界なのである。それがなぜなのか、いつしか大人はわからなくなってしまう。大半の人間は、そうしたヒエラルキーではせいぜい中位に位置してきたはずなのに。学校の先生たちも、恐らく大半はそうだったはずなのに(体育科は例外)。

 「学校」というところから離れると、全く別のヒエラルキーが途端に広がり、今まで辛い思いをした者や、いまいちパッとしなかった者たちが優位に立つ「社会」が待っている。中学校では、成績が良いこと、勉強ができることが先生たちから一番に求められていることなのに、それが自分の生きる世界では絶対的な価値とはならないというジレンマが存在する。

 しかし、実は社会においては、そうした価値観である方がよっぽど特殊である。自分の属する世界の「業務」に長けている者が、やはり最も存在価値があるのである。求められていること以外が絶対的な価値観としてその世界を支配していることなど皆無といってよい。

 つまり、「学校」とは非常に特殊な世界なのである。人生80年の中ではほんの一瞬の期間で、長い人生の中でかなり特殊な期間であるのに、まず最初にその特殊な世界で生きることを強いられる。価値観においては一筋縄ではいかない歪みのある世界から始めなければならないと言っても良い。

 みんなそうだったんだから――と平気で言ってしまうのが学校の先生である。

 私はそれよりも、その歪みを是正する方が、理屈として当然だと思うのだが。勉強を頑張れと言っているのだから、勉強を頑張った者が輝ける世界にするというのが道理ではなかろうか。

 高校以上になれば、少しずつ世界は淘汰されていく。学力別に進学先が振り分けられ、勉強を頑張った者は勉強を頑張ることが評価される世界へと近づき、そうでない者はそうでないことが評価される世界へと近づいてゆく。勉強を頑張り通せば、その努力が花開くときがいつか来る可能性は一応高い世の仕組みとはなっている。

 しかし、「現在」に苦しむ中学生にとって、そんな事実など虚しいだけである。学校の先生たちが求めていることを頑張っても苦しみや悲しみが緩和されない「学校」という世界は、一体何なんでしょうね?

 そんなことを【二条城】の記念メダルを見て思い出した夜。




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