※管理人は天理教信者ではありません。それどころか、どの宗教に関しても信仰心は皆無です。信仰の自由が保障されている日本国憲法下においてどのような信仰をしていても当然自由であり、信仰をしないのもまた信仰の自由であるという考えで生きています。
初上陸の街「天理市」
【天理教教祖百年祭】は1986年に行われた祭事である。それ以上のことをここで言及することは控えることにする。当時の様子を詳細に記録したYouTube動画が存在し、検索すれば容易にヒットするので、気になる方はそちらをチェックしていただければ問題ないかと。かなり盛況であったことがわかる動画となっている(盛況という表現が相応しいかは不明だが)。
この記事では、主に天理市及び天理教教会本部周辺を観光した様子を中心に記述していく。そう、私は観光客としてこの街を訪れたのだった。
実は、「天理市」という場所は前々から行ってみたい場所の一つだった。日本において、宗教の名称を由来とした市町村は他にないからである。トヨタ自動車本社があるから「豊田市」になったみたいな流れとノリとしては同じであるが、その根本にある名状し難い「何か」は明らかに違う。例えば、「豊田市役所に勤める人は全員トヨタ社員なのかな?」という疑問は公務員という職種の特性上愚問であるが、「天理市役所に勤める人は全員天理教信者なのかな?」という命題は理屈の上では成り立つ可能性があることになる(そんなことはないとは思うが)。
高校野球の強豪「天理高校」で野球に熱心に取り組む生徒たち全てが天理教信者かといえば、その答えは「PL学園」出身のプロ野球選手たちが全員「PL教」の信者なのか?という問いの答えと一緒だと思われる。が、街を散策した印象としては「もし天理教信者でなかったら、この土地に持ち家は建てづらいな」という印象である。たとえるなら、京都の中心地にキリスト教の教会やイスラム教のモスクを建築するのは憚られるような感覚と同じである。たぶん。
街全体から感じる宗教的空気は、個人的な感覚としては「京都で感じる仏教感よりも上」だった。それくらい、街と天理教とが強く結びついている。これは恐らく、実際に天理市の街を歩いてみれば、大なり小なり同意を得られるのではなかろうか。
街の散策もそこそこに、教会本部へと向かう。あらゆる意味で間違いなく、この街の中心である。
実は天理教教会本部の内部は、誰でも見学可能である。しかも365日、24時間OKだと謳われている。それは事実ではあったのだが、想像していたのとちょっと違ったところがあったので注意が必要である。
まず注意したいのが、私が訪れたのは年の瀬も迫る12月30日だったという点である。そう、ありとあらゆる観光施設がすでに年末年始の休業期間に入っていたので、では「365日、24時間OKなこの場所に行こう」ということになって足を運んだのが今回のいきさつとなる。
で、事前にネットで調べておいた「拝観受付」があるという「インフォメーションセンター」に向かったら——
年末年始休業でした
本来ならここで受付をすると、信者の方が直々に神殿内部を1時間弱かけて案内してくれるということである。しかも無料で。その案内に受けることに関しては信者であるか否かは問わないそうで、正直に「信者じゃないけど見学したい」旨を伝えれば良いとのことだった。
しかしせっかく来たので入り口のところにいた天理教の法被を来た人に「信者じゃないけど見学してみたいんですけど〜」ということを伝えてみたところ、礼拝所の中を静かに見てもらう分には構わないですよ〜とのことだった。つまり、礼拝所には誰でも入って良いという意味で「24時間、365日OK」だという意味であったようだ(ちなみに夜間は南礼拝所のみが開いているらしい)。また、神殿内部の写真撮影は禁止とのことだった。案内付きで教会内部のいろいろなところを巡る見学は、また別の話であるようだ。
そんなわけで蟻よりも身を小さくしながら礼拝所の隅に入らせていただいたところ、そもそもふざけられる雰囲気一切ナシであった。この雰囲気は、言葉にするのは難しい。見たこともない規模の畳の大広間であったのだが、畳にゴロンとするなんて言葉はここには存在しなかった。別に強制されたわけでもないのに、ここでは自然と正座で座ってしまう——そういう雰囲気の中、信者のみなさんがそれぞれ祈りを捧げていた。NOT信者が見様見真似で行うのは憚られる雰囲気に満ちていたので、ヘタなことはしないでおいた。ちなみに天理教では「一礼四拍手、礼拝、四拍手一礼」であるらしい。神道では「二礼二拍手一礼」であることは有名なわけだが、それとはだいぶ雰囲気が異なっていた。一番違う点はもちろん拍手の回数であり、そのことに最初に気がつくだろう。が、個人的に一番雰囲気が違うなと感じたのは、「頭を上げて祈るのか、頭を下げて祈るのか」である。「二礼二拍手一礼」の場合は手を合わせて頭を上げたままお願い事を頭の中で唱えるわけだが、「一礼四拍手、礼拝、四拍手一礼」の場合は、深々とお辞儀をしながら(礼拝)祈りを捧げることになる。これを正座して行うので、要はイスラム教のお祈りに近い見た目の印象を受けたのだった。
この場所を一言で言い表すならば「神聖な場所」ということになるだろう。無神論者である私にも、そう感じさせるだけの何かがあった。その雰囲気を、訪れる人たちが作り上げているのか、この建物がそうさせているのか、はたまた天理教で「ぢば」と呼ばれるこの土地こそがその力を生み出している源なのかは私には知る術はないのだが、とにかく、ここでふざけたことをすることは絶対に許されないと思わせるだけの力を感じたのだった。パンダのぬいぐるみを取り出すなんてもってのほかである。
ちなみに私が入ったのは西礼拝堂という場所で、メイン会場?は本来なら神殿正面にあたる南礼拝堂だと思われる。神殿正面にまで至る道はこれまたなかなか荘厳な道となっている。
いろいろと心の準備が不足していたことが否めない。予習をほとんどせず「天理市」という街に足を踏み入れたため、何もかもが度肝を抜く光景で、圧倒されてしまった。
そして——圧倒的なまでの静かさ。
誤解を恐れずに言えば、気分は本当に『千と千尋の神隠し』の千尋が一人で油屋周辺の町をさまよっていたときの気持ちに近かったのではないだろうか。うまく言葉にできないが、街を歩いているとき、序盤のあのシーンのことを何回も思い出した。
この雰囲気を味わえただけでも、この街に来た価値があったと思っている。もちろん教会本部をじっくりとガイドして欲しかったのだが。
スタミナラーメンを食べてやる気MAX!
私が天理教教会本部(の近辺)に来たかった理由の一つに、「ラーメン」の存在がある。それがこの「天理スタミナラーメン」だ!
どういう経緯かは不明だが、この天理スタミナラーメンは、なんとインスタント食品となってサービスエリア等でご当地モノとして販売されているのである。以前から京都方面のSA /PA等で目にしていて、すっかり私の中で気になるあの子としての地位を確立していた。
ラーメン大好き小池さんに勝らなく劣るほどラーメンが大好きな私は(好き具合がイマイチ伝わらない表現)、このご当地ラーメンをぜひ食してみたいをかねてから恋焦がれていたのだ!
そんなわけで、教会本部のすぐそばにあるアーケード街「天理本通」に足を踏み入れたのだった。
「天理本通」の印象としては、見た目通りのアーケード街で、仙台でいえば「一番町」、名古屋でいえば「大須」、大阪でいえば「天神橋筋」みたいな場所を、人をいなくした感じといえば良いだろうか。なんかうまく説明できなくてごめんなさい。通りの雰囲気だけでいえばマジで大須の感じに似ていると個人的には思う。仏具店が天理教関係の店に置き換わった感じで。
そのアーケード街を突き進むと、目的地に辿り着いた! そして、ここで衝撃的な光景を目にすることになる——
一体なぜ? なんのためにこのような2度と引き返せないような道を選んだのか——その真相を尋ねることはついにできなかった。クルマを埋め込むにしても、もうちょっとかっこいい車の方が良かったのではないか? というピントのズレたことを考えながら、「やはり私ごときちっぽけな存在では理解の及ぶところではない、天理市」といことを改めて突きつけられた光景であった。天理市に、「いたって普通のラーメン屋」など存在しないのかもしれない。
自分が未だかつて体験したことのない事象の連続に意識はすっかりKO寸前になりながらも、そのスタミナこそを回復すべく店内に足を踏み入れる。
店内の様子は、今度こそ「いたって普通のラーメン屋」だったので割愛するが、客層としては「天理大学でスポーツに打ち込んでいるっぽいガタイの良い人たち」の姿が目についた。考えてみれば教会周辺はそれこそ「天理幼稚園」から「天理小学校」「天理中学校」「天理高校」「天理大学」まで揃う、一つの学園都市的な機能も有しているのである。アーケード街でも、通りの雰囲気からしたら意外なほど若者の姿と遭遇した。
そんなわけで、兼ねてから食してみたかった「天理スタミナラーメン」を注文。それ以外はありえないぜ!
注文してから提供されるまでに、ラーメンにしてはそれなりに時間が掛かった印象だが、運ばれてきたラーメンを見て納得した。それがこちらだ!
具材は炒めた野菜であり、恐らく「野菜を炒める」→「麺を茹でる」という順番で進めるために時間が掛かったものと思われる。雰囲気としては「長崎ちゃんぽん」みたいな感じであるが、はっきり言ってリンガーハットのそれよりこちらの方が断然に、超うまい。特にスープがうまい。テーブル備え付けのニンニクをマシマシするとさらに超超うまい。
つまり、美味。
期待感MAXだったのでうっかり大盛りを頼んでしまったのだが、ついスープまで飲み干してしまった。スープが後を引く美味さで、レンゲを止めることあたわず。
大満足でございました( ´∀`)
これだけでもここまで来た甲斐があったとしみじみ思いながら、帰路につくのであった。
記念メダルについて
このメダルがどのように販売されたのか(あるいは配布されたのか)は不明である。
ちなみに、少なくてもネット情報では「九十年祭」のときにも記念メダルが製作されていたことが確認できる。
https://jp.mercari.com/item/m25869174904
天理教では10年ごとに記念祭を開催しているそうなので、今後も製作される可能性はなきにしもあらずといったところだろうか。ちなみに現在は130年祭まで実施されている。
デザインについて。
おもて面に書かれた「ひのきしん」とは、漢字にすると「日の寄進」とあてるらしく、つまり信仰する神様に対する日々の寄進のことを指すらしい。で、「日々の寄進とは何ぞや」ということになるわけだが、具体的に言えば「庭の掃除」とか「神殿の廊下の雑巾掛け」とか「設備の整備」とか、つまりその時その時で気がついたことをやって神様への感謝を行動と態度で捧げる、みたいな話であるらしい。おかげで施設は歴史を感じさせる風体であるにもかかわらず確かによく手入れが行き届いていて綺麗であった。
ただ、この描かれた二人の人物が何をしているのかは不明である。恐らく祭事に関係あることをしているのだとは思うのだが。
裏面は天理教のロゴマークとなっている。ちなみにこのロゴは教祖中山みきの嫁ぎ先である中山家の家紋そのままであるらしい。
80年代メダルの味を存分に発揮しているデザインであるといえる。この頃のメダルは、人物の造形が独特だよね!
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