兵庫県【須磨海浜水族園】 記念メダル

 兵庫県の【須磨海浜水族園】は、今年60周年を迎えるらしい。還暦である。

 そのため、裏面が「60周年バージョン」となっていた。逆に言えば、今年は通常バージョンは入手できないということでもある。世の中とはままならないものである。

 ーーと思ったら、別の売店で通常版メダルが販売されていたっぽい!? こういうことはよくある。記念メダラーたるもの、このようなことで決して悪態をついてはいけない。血の涙とともに、何よりも己の迂闊さを飲み込むべきである。

 60周年ということは私が生まれる遥か前から存在していた水族館ということになるのだが、なかなかどうして、とてもよい水族館であった。昔ながらの雰囲気を残しつつも、展示内容や展示の「解説」はイマドキ風である。ただ怠慢に伝統を引き継ぐのではなく、時代のニーズに合わせて変わり続けようとする姿勢がうかがえて好印象であった。ぜひ自分もそうあり続けたいものである。

↓女子高生が授業中に国語のノートに描きがちな感じのイラスト

ただ、昔ながらの水族館であることを象徴する事態に遭遇した。突然のゲリラ豪雨により、別館への移動ができなくなったのである。現在の建設事情であれば、別館に行くのに野ざらしの屋外を通らせるなんていう設計にはまずしないだろう。別館に移動する客を見込んでいたであろう屋外に設営された屋台では、視界が白くぼやけるほどの豪雨により誰も来るはずのない店の中で店員が建物に戻ることもできずに取り残されていた。まさに「水を差される」とはこのことである。

 ゲリラ豪雨は、ゲリラ豪雨だけに30分ほどで静まったのだが、併設されている遊園地では全てのアトラクションがストップされていた。閉園まで残り1時間程度だったこともあり、雨が止んだからと言って遊具に掛けたカバーを全て取り払って1から仕切り直すのは非常に骨が折れる作業であろう。券をどうするんだと客ともめていた。まさに自然災害の脅威である。

 ここの水族館は、まず初めにいきなり大きい水槽がバーンとあるのが大変よい。この水槽に見応えがあったために、そこから先も好印象で見られたのだと思われる。魅力というのは出し惜しみしてはいけないのである。

大水槽にいるマンタ。題名「僕の胸に飛び込んでおいで」

そんなわけで、数々の水族館に訪れ、水族館に関しては小うるさい私でも、久々にグッとくる水族館であった。新しくオシャレだから良いというものではないのである。

 以下、ダイジェスト↓。

↓ロボットの魚。少なくても耐水性能はiPhoneより上ということになる。

↓チンアナゴが首まで浸かっている図。

↓なんだか卑猥な形の生き物。えっ? 何想像してんすか?

↓握り寿司みたいな魚。テイクアウト。

↓おまたご開帳。

↓カブトガニとカニの漫才。

↓最悪な図1。

↓最悪な図2。

↓最悪な図3。サカサクラゲがいっぱいいすぎて逆さかどうかわからん。

 全くの余談であるが、「須磨」といえば『源氏物語』で光源氏が政治的に窮地に陥った際に高飛びした地である(ものすごく軽い言い方)。いわゆる「須磨流し」である。原因は今風に言えば「ゲス不倫」である。しかも手を出した相手は東宮(いわゆる皇太子)の女である。かつて石田純一が「不倫は文化」だと述べていたが、まさにその通りなのである。平安時代から受け継がれる文化なのである。だから、国会議員が不倫スキャンダルに揺れる昨今であるが、国政に携わるものが不倫で身を滅ぼすというのは、平安時代から色濃く受け継がれる日本の伝統文化なのである。なんら恥じることはない(恥じろ)。

 須磨でわびしい生活を送る光源氏は、都にいる自分の女たちにせっせと手紙を送るわけだが、現代だったらきっと「須磨なう」とツイートするだけでリプライがたくさん帰って来ることだろう。スマホがあれば流されても寂しくないね!

 余談の余談だが、『源氏物語」はよく古文の分野の「敬語」で引用される。主には敬意の方向を問う問題で引用されるのだが、ここで難しいのが、現代の小説にはない価値観が存在し、しかも高校の先生はなぜだかそのことをはっきりと教えてくれないことが多いということである。

 現代の小説にない感覚とは、「作者が架空の人物に敬語を使う」というものである。現代で例えれば、赤川次郎が、三毛猫ホームズが鳴くたびに「ニャーとお鳴きになった」と地の文で書くようなものである。

 ファンタジー小説では「王様」や「王子様」がよく出て来ると思うのだが、当時の感覚に基づけば、たとえファンタジーのフィクション作品であったとしても、身分の高い登場人物に対しては、その者が行動する度に「召し上がる」やら「ごめん遊ばせになる」といった表現でその行動を記述するわけである。

 「作者が架空の登場人物に敬意を表する」という感覚があることをまず教えていただけると、話が見えやすくなると思うのだが、私が出会った国語の先生たちはなぜだかそれをしてくれなかったので、かつては古文の敬語で少しつまずいた。逆にこの感覚が理解できると、頻繁に主語が省略される『源氏物語』において、動作主が推測しやすくなるというメリットがある。

 作者の紫式部は宮中に仕える人間であった。そんな人物が、架空の天皇やら天皇家のお家問題やらを物語として描いたというのはなかなかすごいことだなぁと思うのだが、その辺の感動を先生たちは全然伝えてくれなかったのが残念である。現代で例えれば、眞子様とそのボーイフレンドとのデートに密かに随行していた女ボディガードが、仕事の中で得た知識に基づいて正確な描写で事細かに天皇家の内実を描き、架空の天皇を仕立て上げ、その子供があっちゃこっちゃで女と戯れまくるフィクションを書くようなものである。しかも超大作で。

 1000年前にそれをしたというのが本当にすごいよね〜という超どうでも良い話でした。ちゃんちゃん。

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