邪道【法然上人浄土開宗八百年慶讃大法要記念】 記念メダル

 【法然上人浄土開宗八百年記念慶讃大法要記念】とは、その名の通りの記念事業であるらしい(雑な説明)。恐らく1974年のことである。

 『浄土』というそのまんまなネーミングのイカした雑誌があり、1973年5月号でこの行事の特集が組まれている。

 

↓浄土宗のお坊さんの方々にとってきっと胸が躍ってたまらない特集。

 

 私はこの雑誌のPDFデータを所有している。最初の特集はなんと「ハワイのマウイ島にあるラハイナ浄土院」に関するものである。ワイハーにお寺があるなんて! という素直な驚愕に見舞われる。これはすごいと読み進めるが、1ページちょいで断念という体たらくであった。興味がなさすぎて全く読めない。私は基本的には活字を海よりも深く愛する人間なので、内容が頭に入ってさえくればなんでもそれなりに楽しめる性質である。

 が。

 この記事を読むことに関しては、全く興味がない分野の研究論文を読んでるかのような苦痛に見舞われた。この苦痛の程度を例えるなら、「どんな話題でも全部自分の話にもっていく人と長話をしなければならなくなったときのよう」といえば伝わるだろうか(伝わらない)。そしてそういう人は得てして1から10まで全てを最後まできちんと話し切らないと気が済まず、何より 突然の災害のように辛いのは、その長話にオチがないことである。本当に「ただ言いたかっただけ」ということを、言いたいままに述べるのである。人はそれを悪夢と呼ぶ。

 無神論者の無宗教を地でいく私にとって、ハワイにある浄土宗のお寺のことは、人の話を聞いてくれない人の長い話に耳を傾けるがごとしなのであった。

 当然、以後の特集記事も全く読んでいない。そして永遠に読む日は来ないであろう。

 浄土宗は、いわゆる鎌倉新仏教の一つである。ものすごく雑にいえば「念仏を唱えてさえいればよい」という教えのもと、「南無阿弥陀仏(阿弥陀仏に帰依します)」と唱えることで極楽浄土を目指す仏教である。鎌倉新仏教が興る前から存在した「天台宗」などの古参の仏教はやることが非常に多く、素人には向かなかった。が、後に起こった鎌倉新仏教は、そうした多岐にわたる修行の中から「一つにだけ取り組めばよい」(禅宗なら座禅、法華宗なら法華経、みたいな)という簡素化が庶民に受けて広まったとされる――というのが、中学校社会科での教えである。深い事情はいろいろあるのでしょうが。

 総本山は京都の知恩院である。京都北部の「天橋立」近くにある【知恩寺】には記念メダルがあり、そのお寺と間違えるのはきっと記念メダラーあるあるに違いない。ちなみに【知恩寺】と「知恩院」は同じ京都府にありながら100キロ以上離れている。間違えることは悲劇である。

 似た名前である「浄土真宗」の開祖・親鸞は、法然の弟子である。浄土宗をベースにさらに簡素にしたのが浄土真宗で、個人的に一番の特徴であると思うのは「肉食べていいし、嫁もらっていいし」というもはや何でもありにした点である。他の仏教からしたら、正直「ずりー」と思ったに違いない。何でもOKの理屈としては「仏教ってのはもともと一般ピーポーを救うためにあるんだから、一般ピーポーがしていることを私がやっても問題ないっしょ?」ということらしい。俗にいう「悪人正機説」というやつに繋がる考え方である。ちなみにここでいう「悪人」とは、カラダだけが目当てで一発やったら用済みとばかりにベッドから蹴落として部屋から追い出す最低男のような人間のことではなく、「この世のすべての人間」を指す。善いことしたと思っていること自体「悪」だし、何を行うにしても煩悩から行動するので、みんな「悪」だ! というのが悪人正機説の「悪」である。そんな「悪人」こそ仏様に救ってもらうのだ~というのが浄土真宗の教えで、仏様に救ってもらうというところから「他力本願」という言葉が生まれた。みんな悪人なんだから自力で本願(極楽浄土に行くこと)を成就させることはできないよーんという話である。

 いつのまにやら浄土宗ではなく浄土真宗の話になってしまった。それもこれも、現在職場で「浄土真宗の寺の娘」という人物と仕事をしているためであろう。他の寺の跡取り息子を相手にしたお見合い話を全力で拒否しているらしい。そしてチャペルで結婚式を挙げることは不可能な運命のもとに生を受けた女性である。

 だからどうした? と言われれば、どうもしない、と答える話。




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