特別展【恐竜の卵】は、【福井県立恐竜博物館】で行われたイベントである。が、私が【恐竜博物館】に訪れた翌週に開催されたので、事前情報を収集する大切さというものを身を以て知った出来事であった。かといって、行動を改めるかといえば絶対に改めないのだが(キリッ)。人は変わろうと思わなければ変われないのである。ましてや、自分の恋人を自分の都合良いように変えようなんて考えは、地球の自転を反対向きにするくらい不可能な話なのである(なんの話?)。
悲しみに暮れていたが、その後、愛知の【名古屋市科学館】でも開催されたので、そちらに行くことにして無事入手した。神は私を見捨てていなかったのである。ちなみに遠藤周作の『沈黙』を読むと、外国のキリスト教と日本のキリスト教(江戸時代のキリスト教)とでは価値観そのものが違うことがわかる。宣教師たちが日本に伝えようとしたキリスト教における神は「永遠の同伴者」として常にそばにいる存在ーーつまりは、どんなことがあっても見捨てはしない「許してくれる存在」であったのに対し、江戸時代の隠れキリシタン達が求めたキリスト教の神は「救ってくれる存在」であった。貧しい農民達は、貧しさに加え幕府の厳しいキリスト教弾圧により「なぜ救ってくれないのです!?」と苦しむことになる。それに対して主人公である宣教師は「神とは、そうではないのだ〜」とこれまた苦しむことになるのだがーーて、何の話をしているのかというと、「神は私を見捨てていなかった」という私のセリフに関しては、日本人の髪に対する価値観に基づく発言である、ということが言いたかったわけだが全く関係ないめんどくさい話ね、これ。
で、この特別展は、割と楽しめた。特別展は「別料金を払う割にはそんなに面白くない。説明パネルを読んでいるだけで疲れる上に、説明パネルを読むだけなら本でよくね?」と(私の中で)相場が決まっているのだが、本物の化石が沢山展示されており、化石というジャンルはまあまあ興味がある分野なので、それなりに楽しめた次第である。
中でも一番納得だったのは、「卵の化石は、何の卵かわからない」という考えてみれば至極当然の説明であった。至極当然なのだが、言われてみれば確かに知る術がない。だから、「恐竜の卵」という特別展は、「これは恐竜の卵である」と判明しているだけで実はすごい化石たちを展示しているすごい特別展なのである。
以下、写真と共に振り返る展示内容。
↓「本物の恐竜の卵に触れます」というコーナー。触った感じは、石である(当然)。矢印部分、誰か持ち去ってね?
↓これは翼竜の化石であるのだが、「体内に卵があるから初めてメスだと断定できた恐竜」とのことである。言われてみれば確かに化石ではオスとメスの区別が付かない。なぜなら、ち◯こに骨はないので、化石とならないからである。そう、言われみればち◯こは化石とならないのである。そう、ち◯こはーー(以下、最低なエンドレス)
↓「恐竜の皮膚の色は化石からはわからない」というのは有名な話だが、近年の研究では皮膚どころか羽毛が生えた恐竜がいたとされている。羽毛があるともはや恐竜ではなくまんま鳥である。ちなみに恐竜の子孫は鳥であることも最近では有名。
↓これまた卵が体内に残っていた恐竜。写真ではわかりにくいが、卵が二つ残っていることから、卵管等も二つあったことが判る。しかし、死んでなお、そんなことまで晒されるのもヤだよね。しかも有料なのに自分には一銭も入らないのだから。
卵の異常か、はたまた恐竜にも托卵があったのか? ということをうかがわせる化石。中央の卵の化石は周囲のものより明らかに小さい。しかしカッコーのように托卵するなら周りよりデカく逞しくないと生き残れないような気がするので、卵の異常である可能性が高いような気がする。もし托卵だったら、体は小さくてもめっちゃ態度がでかいということになる。そんなやつ、中学校・高校ではいなかったなー
↓「福井県立恐竜博物館」と表示されている刻印機。そのまま持ってきたことが丸分かりであるが、それは別に悪いことではない。悪いのは、手抜きであることである。
↓ちなみにこんな記念メダルケースを手に入れましたとさー。三枚までギリ収納可能。お出かけ用記念メダルケースとして使用。もちろん必要ないといえばないが、ま、気分の問題よねー
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