邪道【ミュンヘンオリンピック’72】 記念メダル

ミュンヘンオリンピック記念メダル銀ミュンヘンオリンピック記念メダル

↓38ミリメダル(デカメダル)

 【ミュンヘンオリンピック】は、1972年に東西統一前の西ドイツで開催されたオリンピックである。

 【ミュンヘンオリンピック】といえば、スティーブン・スピルバーグの映画『ミュンヘン』でも語られたオリンピック史上最悪の出来事「ミュンヘンオリンピック事件」である。そんな暗い話題だけではなく、このオリンピックでは「男子バレーボールの金メダル」という現在では到底考えられない偉業とか、男子体操の表彰台独占とか「月面宙返り」の誕生とか、そうした日本にとって明るい話題も数多くあったオリンピックであった。が、大会期間中に9名の選手・コーチがテロリストによって殺害されたのにオリンピックを余裕で続行させた現在では考えられないような所業に比べれば、日本の偉業など些細なことであろう。当時のIOC会長は反ユダヤ的な発言をすることで有名な人物で、事件からわずか30時間あまりでオリンピックを再開させた。テロに屈しない、という強い決意の表れなのかもしれないが、現在の感覚と照らし合わせると、なかなかすごい話である。

 「ミュンヘンオリンピック事件」とは、イスラエルの選手団がパレスチナのテロリストに襲撃され他事件である。テロリスト達は選手を人質に取り、そのまま選手村に立てこもった。この事件で語られる多くのことは、警察のずさんさである。まずテロ事件という高度な専門性を要する事件なのに地元警察のみで対応したことが挙げられ、そのことによる対応の甘さ、ずさんさが積み重なり、最終的には人質全員が殺害されるという最悪の結末となる。ずさんさの一例としては、強行突入しようとしたらそれらすべてがテレビ局に生中継されていて犯人側にバレる→中止とか、信じられないような対応がある。また、テロリストの武器に比べて地元警察が所有する武器が貧弱だったため、警察官が勝手に途中で作戦を投げ出して逃げ出すというようなことまであった。このあたりのことは映画『ミュンヘン』の冒頭で描かれている。

 映画『ミュンヘン』は昔鑑賞したことがあるが、かなーり暗い話である。人質が殺されるシーンもなかなかに生々しい。顔を横から撃ち抜かれてほっぺたに穴が空いたまま呆然とするシーンとか。レスリングのオリンピック選手なのに完全武装したテロリストには全く歯が立たないという一つの現実を表している。

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 作品の出来としては「まあまあ」といったくらいである。基本的には良いことが何一つ起きない作品なので、万人におススメできる類の作品ではない。映画を観て幸せになりたい人は観てはいけない系である。なにしろ主題となっているのは、テロ組織への報復を国から背負わされた主人公が、擦り減るようにどんどん疲弊していく姿なのである。最終的には、「殺したら、殺される」という因果によって、追う立場であったはずの主人公が、やがて追われることに恐怖して、安息の日々を失う姿が描かれて終わる。

 作品自体はそんなに好きではないのだが、劇中の言葉で、異様なまでに私の心に響いたものがある。それこそ、十年以上たった現在でも、その言葉は私の心の根底に根深く残り、現実生活を突き動かす根拠にさえなっている。

 その言葉とは、

 一日で決められないことは、一生決められない

 この言葉は、主人公がモサド(パレスチナの諜報機関)の幹部から、テロ組織への報復作戦を引き受けるかどうかの決断を迫られた際に言われたものである。なぜこの言葉に惹かれたのか理由は不明だし、この言葉を放った人物も特にかっこよくもないチョイ役のおっさんであったのだが、私の心に妙に響き、刻み込まれた。この言葉に出会って以来、それこそ人生を左右するような大きな決断であっても、悩むのは一日までというルールが自分の中で構築された。

 ただ実際にそのように決断をするようになって思うのは、そんなことはないなということである。実際には、「もうちょっと待ってから決めれば良かった!」とか「考えが足りなかったかも!」とか思うことは、少なくない。一日で決められなければ一生決められないというわけでは決してなく、もっとよく考えたり少し時間を置いたりした方がベターな決断ができたと思われることはままある。

 それでも、私はこの言葉を今でも深く刻んだままにしている。

 理由は簡単かつ別にかっこ良いものではなく、「悩む」=「苦しい」、「決める」=「肩の荷がおりる」を比べて出る結果によるものである。さっさと決めてしまった方が楽だし、何より「こんな大きな決断をすぐに下せた自分ってかっこいい~すごぉ~い」というマスタベ的な快楽に溺れている側面は否めない。すぐ決められる俺ってかっこいい、と自分に酔っている「決断力を高める系」のネット記事は腐るほど溢れ返っている。まあ私もその一員なんだけどね! 転職をすぐ決断できた僕ってすごい的なエピソードを機会があればすぐに語って聞かせる悪いクセがある。自分に決断力があるってことを自分で言うのって結構ダサいよね。

 悩み抜いて最善の判断を下すというのもまた、鍛錬のいる力なのである。最善の判断をするのにもまた、時期を見極める力とは違う能力がいるし。

 世の中にはその間に身を置く現象というのも存在する。すなわち「実質1秒で判断は下しているのに、なぜだか悩んでいる」という摩訶不思議な現象である。

 女子の買い物である。

 女子の買い物において最も恐ろしい瞬間は「どっちがいいと思う?」という問いかけを放たれることである。

 もちろん心の奥底では、本人は比べるまでもなく心に決めた片方が存在する。それが存在するのに、購入へのあと一歩が踏み出せないがために、背中を押してもらうべくこんな問いをいたずらに発するのである。すでに述べたように、この問いには正答が存在するので、決して誤ってはならないのである。

 賢明な男子諸君ならば、日頃からの彼女の嗜好、趣味、傾向を分析し、最善解を導き出すことだろう。見事意見が合致したあかつきには、彼女からの信頼と愛はさらに強固なものとなる。一方で愚かな男の場合、彼女の問いかけの形をした「試練」を、言葉の通りただの問いだと解釈してしまい、自分の好みをばか正直に答えてしまう。そうした結果は、時には正解となり彼女の信頼を得て、時には不正解となり「えーどうしてー?」という彼女の不満顔を前に、訊いておいてそりゃないだろと不機嫌になった彼女を見ながら暗澹たる気持ちとなるだろう。そして私のようにさらに愚かで誠実ではない男の場合は以下のようになる。

「ねえ、これとこれ、どっちがいいと思う?」

「えっ、こりゃ確かに悩むね~。うーん、君はどっちかといったらどっちが良いと思うの?」

「うーん、悩むけど、どっちかと言ったら……こっちかなぁ」

「あっ、やっぱり! 僕もそっちが良いと思ってたんだよね!!」

「あ、やっぱり!」

「うん、ぜったいこれ君に似合うよ!」

 という茶番が繰り広げられる。不思議なことに、どっちかといったらどっちが良いと思うの? という問いに問いを返す形にしても、「それがわからないから訊いてるんじゃん」という本来あるべき返答が返ってきたためしは一度もない。常に「どっちかといえばこっち」が存在するという恐ろしい現実がそこにある。我々はその「こっち」を決して見誤ってはならないのである。

 「決められない」と「決めてほしい」――それは似て非なるものかな。




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