60回目の結婚記念日
このメダルは昭和天皇のときのものである。
結婚六十年というだけですごい話である。言い換えれば「赤の他人だった人と六十年も共同生活を営んだ」ということになる。しかも、それが皇族という話であると、より複雑さと凄みが増す。
今上天皇・皇后の御成婚時は私もこの世に生を受けていたのでかつての報道の様子が記憶の断片として残っているのだが、最も印象的だったのは、「お互いどれくらい好きか?」みたいな報道記者のセンスがなさすぎる質問に対して、当時の皇太子が「この世で一番好きです」と答えていたのに対し、皇族入りする立場の方が「まあまあ好きです」と答えていたことである。幼かった私は隣にいた母親に「まあまあなのに、どうして結婚するの?」と質問し、母親は「本音じゃない?」と、ちょっとピントを外した答えを返してきた。今思うと、これは「本音じゃない?」ではなく、「本音じゃない」だったかもしれない、と今では霞がかかる記憶の中の映像を振り返る。
好きになるも何も、結婚までにそもそもそんなに会ったことがないだろう。そして「まあまあ」でだって、好きになる云々の次元ではないところに「皇太子との結婚」というものがあることが今ではわかる。もしも「まあまあ」でも好きだったのだとしたら、それはとても順調に愛を育んでいるといえる。
母の「本音じゃない?」は、皇室入りという複雑な事情を幼い子供に説明しようとする一方で、しかしめんどくさいという気持ちが勝ち気味の、アンニュイな一言であったように思う。
しかしながら、そうした複雑な事情を鑑みる以上に、そもそも私の母親は結婚というものに対していろいろと思うところがあったのではないかと思う。当然、自分の身に重ねての話となる。
よくある話といえば話だが、「よくある多少複雑な家庭」で生まれ育った母は、都内でも有数の進学校を卒業しながらも、高卒で一般職として就職した。それが母の望んだ道であったのか、家庭の事情でそうせざるをえなかったのかはわからない。時代的にも母が歩んだ道は現在と違って決して少数派ではないだろう。ただ、母が歩んだ道が、母が当時「望んだ道」だったのかどうかは誰にもわからない。母が「そうだ」といったものが、真実となる。
就職した会社で父と出会い、私を含む3人の子供を産んだ。それが恵まれた人生であったのかどうか、突き詰めてしまうと、誰にもわからないことである。父と出会い私を産んだことが幸せであったという可能性と同じだけ、大学に行き仕事でキャリアを重ねてまったく別の人間と結婚してまったく別の子供をもうけた方がより幸せだったかもしれないという可能性が存在するのだ。
人生はやり直せない。だから、選んだ選択肢以外の結果は本当はわからない。
そのため人間は、「辛かった過去も含めて、今の自分がある」と自分の歩んできた道を含めて現在の自分に納得するようにできている。そうできている。造られているといってもよいかもしれない。人ならざるものの神秘的な力によって。
しかしそこには、その「辛かった過去」が一切なければもしかしたら現在よりもはるかに幸せになっていたかもしれないという可能性が、現在の道が一番幸せである可能性と同じだけ存在するのだ。
「あの時の失敗があってよかった」が本当によかったどうかは、実は誰にもわからないのである。
しかしながら、もちろん母の過去の選択が違ったものであったら私はこの世には生を受けておらず、このブログももちろん存在しない(それが良いのかどうかは別として)。だから私は当然母に感謝をしている。母が、母にとって納得のいく最善の道を選んだ人生であったかどうかはわからないが、私が母に感謝をしていることは揺るぎないことである。
ちなみに私の母親は、かつてお茶の間に流れていた金鳥の「タンスにゴン」のCM「あたしゃ愛より金が好き」編にとても感銘を受けていた。「わかるわ〜」と3姉弟の末っ子の私がいる横で言っていたので、このことだけでも結婚というものに対していろいろと思うところを抱えて生きてきたことがわかる。
「愛より金が好き」は、単純に見れば「大阪のおばちゃんっぽい発想だな!」みたいな感じで笑い話として終わるものだが、もしこの言葉に心から共感するのであれば、そこにあるのは、お金への魅力に取り憑かれた姿というよりは、むしろ愛というものに対して冷めてしまった気持ちの方が強いのではないかと思う。
私の予想では、母はきっとやりたいことがたくさんあったのではないかと思う。しかし、自分の親の結婚のあり方、そして自分の結婚のあり方が——きっと他にもいろいろな要因があるとしても——自分の人生に少なからず影をさしたと心の中では思っている部分があったように思う。そんな思いを上回るほどの大きな愛で包まれていればまた違った納得感が母の中に芽生えていたのかもしれないが、残念ながら私の父はそのような甲斐性があるような男ではなく、暴力は振るわないものの、団塊の世代出身の典型的な夫であり父親であった。父が存命であれば、ぜひ田嶋陽子の『愛という名の支配』を読んで猛省していただきたい(読んだところで何も感じないと思うが。舛添要一やハマコーが読んでもきっと何も感じないのと同じで)。
皇族として結婚生活を六十年も続けるということは、未知の世界の話に等しい。香淳皇后は現在と違い民間ではなく皇族出身の皇后として天皇と共に歩んだので、自分の運命への受け入れ方ははたから見れば容易であったように見える。
が、六十年の間には当然、二人の間に限った話であっても(戦争とかではなく)、きっといろいろとあったことだろう。それにしても六十年て、長い。
記念メダルについて
このメダルはなんとも微妙な大きさの35ミリサイズであり、26ミリ、31ミリ、38ミリの3サイズが公式HPで説明されている点を考えると、「茶平工業製ではない」と考えるのが妥当であるといえる。しかしながら、茶平工業を訪問した際に拝読させていただいた過去メダルの資料の中には、明らかに上記の3サイズとは異なる大きさのメダルの資料があった。その中で最も印象に残っているのは【ヨハネ・パウロⅡ世】のメダルである。
このメダルはなんと直径45ミリである。デカい。
他にも皇室系メダルで45ミリサイズのメダルは存在する(【天皇在位六十年記念】など)。
何が言いたいかというと、公式HPで紹介されている3サイズ以外にもかつては製造していたということである。つまり、35ミリサイズがかつて存在していたとしても、決しておかしくはないということである。
で、ここからがさらに重要になるわけだが、35ミリサイズの茶平工業製っぽいメダルというのが他にも存在するのである。以下、その例。
特に甲子園のメダルは写真で見ると、完全に茶平工業製に見える(大きさがわからないだけに)。私はこれを茶平工業の過去資料の中に求めたが、残念ながら発見できなかった(すべての資料に目を通せたわけではない)。
いつの間にやらすっかり「茶平工業製メダル鑑定士」としての素養が育まれてきた私の目から見ると、これらのメダルの造りは明らかに茶平工業製である——のだが、いまいち自信がないので「茶平か微妙」カテゴリーに入れておく(鑑定士の素養とは⁉︎)。
肝心のメダルデザインとしては、皇室系メダルでよく見る「橋」に、よく見る「鳥」に、よく見る「菊」といった皇室の象徴を集めたような、よく見るデザインの権化である。メダルの縁を添うようにデザインされた鳥の羽とか、結構凝ったデザインではあると思います(奥歯に物が詰まった言い方)。
きっと茶平工業製だとはっきりわかれば、愛情が増すと思われます。
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