愛媛県【松山城】 記念メダル

松山城 記念メダル
旧メダル①(31ミリ)
旧メダル②(31ミリ)
記念メダル販売場所

【販売場所】
@ロープウェイ乗り場1階コインロッカー横
@天守閣入って右側
備考:坂の上のお城

スキーのリフトに乗って目指すお城

 【松山城】は現存天守閣がある城である。お城まではロープウェイで登るのだが、そのロープウェイ乗り場で記念メダルは販売していたような気がする。気がするというのは、例によって城内部の記憶が全くないからである。ロープウェイは乗った記憶があるのだが……

 一生忘れない――と思っても、忘れるのである。それが人間という生き物。

 色あせないと思っていたことでも、いつの間にか色落ちがハンパない。人間の月日とは、ジーパンを洗濯機にかけるようなものなのである。いや、別にうまくない。

 そんなわけで、松山城に関しては語ることがほとんどない。その代わり、強烈に記憶に残っているのが、司馬遼太郎の著作を元に造られた「坂の上の雲ミュージアム」である。

 ここはもちろん『坂の上の雲』を読破してから訪れた方が楽しい場所であろうが、私は逆に、ここを訪れたから『坂の上の雲』を全巻読んだ。しかし、司馬遼太郎の著作物は、非常に面白い代わりに、読むのがとにかくしんどい。私は読書レベルは平均よりかは高い方だと思うのだが(読書レベルというのが自分で言っておいて謎だが)、面白いのだがなかなか読み進められず、合間合間に他の本を読んでしまい、全巻を読むのに恐らく2年くらいはかかったと思われる。しんどい人は、モッくん主演のNHKドラマの方で観る方がよいかもしれない。

 日露戦争の話で戦争物あるが、内容は非常に面白い。愛媛県松山の出身である軍人・秋吉好古、秋吉真之兄弟と、歌人・正岡子規の交流から物語が始まり、正岡子規は早々に物語から退場し、舞台は日露戦争へと移ってゆく。一介の軍人で会った秋吉好古・真之兄弟が、日露戦争において非常に重要な役割を担うようになる、という話が大まかなストーリーであるが、司馬遼太郎なので、例によって話があっちいったりこっちいったりと話が広がりまくる。司馬遼太郎といえば「余談だが……」は定番フレーズだが、「余談の余談だが……」「さらに余談を重ねるようだが……」なんてのもザラにである。

 私は大学受験は日本史選択であったので、参考書の日露戦争の項で、「秋吉真之」を初めて知った。今思えばなかなか右翼的な発想の参考書で、「秋吉真之がもしいなかったら、日本という国は今存在しない」とまで書かれていた。ただ、大げさではあるが、確かに日露戦争は大きな目で見れば侵略戦争であったので、単純に考えれば日本がもし負けていれば、日本はロシア領になっていたということになる。そういう意味では秋吉真之という人物がいなければ、日本海海戦での勝利はなく、少なくても日本は現在の形ではなかったはずである。その割には、大学受験レベルの勉強をしなければ出会うことのないマイナーな人物であるのだが。

 また、『坂の上の雲』では、高校現代文のド定番である夏目漱石の『こころ』で、明治天皇崩御の際に殉死をしたということで「先生」の心を大きく揺るがす存在として登場する「乃木希典」が生きた形で出てくる。ほんと無能とはっきり書かれて出てくる。日本陸軍の最大の不幸は、この男(と伊地知なんちゃらと)が指揮官として立っていたことである、と司馬遼太郎にけちょんけちょんにこき下ろされているのである。司馬遼太郎にここまで言われたら、乃木家子孫の方々はさぞ生きづらいであろう。

 ただし、注意が必要なのは、「司馬史観」という言葉が存在する意味である。「司馬史観」とは、文字通り司馬遼太郎の歴史観のことで、歴史学や文学の中でも、「注意が必要」という意味合いで使われる言葉である。

 司馬遼太郎は、バカ売れした人気作家である。だからこそ、広く一般にも読まれ歴史が深く広まったと言える。「新選組」の現代でもなお続く人気ぶりの源泉は、司馬遼太郎の『燃えよ剣』や『新選組血風録』がその一翼を担っていることは明らかであろうし、坂本龍馬という人物がそもそも世間に注目されたのは『竜馬がゆく』の功績が大きい。特に坂本龍馬は、歴史上長年埋もれていた人物であったと言われている。

 筆力のある人気作家の著作物は、一般市民に歴史の知識を広めたという点で、その功績は大きい。一方で、その著作に描かれる歴史観は、一作家の価値観でしかないとも言える。一作家の価値観が、読者の間にまるで自分の歴史観であるかのように根付いていくのである。現代風に言えば「テレビで言ってたからこうなんでしょ」と何の疑いもなくそれがまるで自分の考えであるかのように語る人がいることを思えば、想像がしやすいだろう。

 司馬遼太郎にアンチが存在するのはこの点で、特に乃木希典に関しては「司馬史観」の批判筆頭である。乃木希典は名将として東京に「乃木神社」なる神社まで建立されて祀られているくらいの、日本陸軍において重要人物であったのである(明治天皇殉死の件も大きいと考えられるが)。

 ただ、アンチの議論も大抵「司馬遼太郎の記述のここが間違っているから、他の記述も信用できない。だから司馬遼太郎のすべてが信用できない」という方向になりがちなのが残念である。一つ一つの検証のみにとどめるのが学問の在り方だと思うのだが、議論というものは「ここが違うから全てが信用できない」という極論になりがちである。

 話がだいぶだいぶ横道にそれたが、とにかく愛媛県松山は『坂の上の雲』の舞台となった街なので、行政もそれに乗っかってるよ、ということが言いたい。行政の乗っかり具合を表した一つに、原付のナンバープレートがある

松山市公式HPから引用
(https://www.city.matsuyama.ehime.jp/kurashi/tetsuzuki/zeikin/keiji/sakakumo_number.html)

 『坂の上の雲』の舞台となったので、ナンバープレートが雲の形なわけである。

 だが、はっきり言おう。『坂の上の雲』に雲なんか出てこない、と。

 『坂の上の雲』の雲は、「坂の上よりさらに高いところにある雲のような存在であった欧州列強」を意味していて、そこに日本が挑戦したのが日露戦争というものだった、ということなのである。

 このナンバープレートを考案した人は、『坂の上の雲』読んでないんじゃね? と思った。ただ、このナンバープレートはかなり欲しい。というわがまなな乙女心。

『坂の上の雲』と私

 「さかのうえ」と聞けば「田村麻呂」か「雲」かと相場が決まっているが、ここでは雲の方。

 日露戦争で活躍した「秋山好古」「秋山真之」兄弟は、正岡子規と並んで愛媛では有名人である。特に弟の「秋山真之」は日露戦争において超重要人物であり、「秋山真之がいなければ日本はなかった」と言われるほどの人物である。しかし愛媛以外の人間からしたら、大学受験で日本史受験を選ぶくらいの勉強をするか、『坂の上の雲』を読むかしないと、恐らく一生耳にすることはないだろう。

 秋山真之は、端的に言えば日露戦争の最終決戦である「日本海海戦」において参謀を務め、ロシアのバルチック艦隊を破った立役者である。大学受験の日本史ではせいぜいその程度の知識しか得られないが、『坂の上の雲』を読むとその詳細がわかり、「なぜ日本海で開戦したのか」と、「バルチック艦隊が敗北した理由」というのがよくわかる。そもそも「バルチック艦隊は日本の北から攻めてきたわけではなかった」という点がびっくりであった。ヨーロッパのバルト海からえっちらおっちら時間をかけてやってきたのである(バルト海の艦隊だからバルチック艦隊と呼ぶ)。つまり、バルチック艦隊は北から来たのではなく、大西洋からアフリカ大陸を迂回して南から攻めて来たのである。で、日本は北で待ち構えて迎え撃ったのである(対馬沖)。ロシアと日本との国の位置から想像していた日本海海戦の構図とは真逆なのである。ロシアまじデカイし。

 正直、日本史の先生がこのことを把握していたかはかなり微妙だと考えている。なぜなら、知っていたら話したくなる内容だからである。ロシア極東のウラジオストックから南下してきたという自然な発想で教えられたような記憶がある(また、それに疑問をもつことも当然なかった)。しかし歴史的事実を超簡単に述べれば、「ウラジオストックにバルチック艦隊が到着したら日本ヤヴァイ」という向きがあり(制海権的な問題)、日本海海戦はそれを阻止するための戦いであったのである。

 日本海海戦では、バルチック艦隊が「日本海側から来るか太平洋側から来るか」というのが、待ち構える日本としては重要なポイントであった。で、いろいろと論議を呼ぶ点であるのだが、バルト海からアフリカ大陸を周って長旅をしてきたバルチック艦隊は最短経路である日本海を通ることにして、日本はそれを読みきったということになる。待ち伏せしていた日本の連合艦隊は「東郷ターン」という異名をもつ「敵前大回頭」という歴史上類をみない戦法をとって、バルチック艦隊を撃破する。

 この時、日本の連合艦隊側で先頭を務めたのが記念メダルでもおなじみの【三笠】であり、数分で数百発の砲弾を浴びたらしい。【記念艦 三笠】として今尚称えられているのはこの辺の事情であると思われる。

 ちなみに当時の戦艦は「砲撃では沈没しない」というのが定説であったが、日本の「下瀬火薬」と呼ばれる特殊な火薬が甚大な威力を発揮したそうで、バルチック艦隊は殲滅された。バルチック艦隊側は「とりあえず被害を受けてもウラジオストックまで逃げ込めばよい」という考えがあったらしく、被害を受けても突っ切るつもりで戦闘に臨んだが、その目論見が外れたことになる。

 松山出身の秋山真之は、この作戦において連合艦隊総司令官の東郷平八郎と並び大きく関わっていたため、司馬遼太郎の小説で取り上げられ、松山では夏目漱石の『坊ちゃん』と並んで有名人なわけである。ただ秋山真之の晩年は霊的なものへの研究に費やされ、日本海海戦で全てを使い果たしてしまったというような見方をされることが多い。日本海海戦での勝利、ひいては日露戦争での勝利が「人智を超えた何か」に導かれたものであるという考えに至ったためであるという見方が、小説等ではよくされる。

 同郷の正岡子規とは幼少期からの友人で、自身も「秋山文学」と称されるほどの文才があったことで知られている。正岡子規と通じていたこともあり、和歌も得意とされるのだが、よく引用される秋山真之の歌は

 雪の日に北の窓あけシシすればあまりの寒さにちんこちぢまる

 という才能の片鱗を全く感じられない歌である。ピカソの『ゲルニカ』は逆に名画であるというのと同じであろうか?

 そんなこんなの松山紹介、秋山真之紹介でありました。ちゃんちゃん。




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