邪道【松山城】 記念メダル

↓新旧記念メダル比較

 【松山城】といえば、司馬遼太郎の『坂の上の雲』である。日露戦争を描いたこの小説を読めば、右翼思想に染まること間違いなしである(「この戦争に勝ったからこそ今でも日本は存在する」という考え方に至る点で)。

 日露戦争で活躍した「秋山好古」「秋山真之」兄弟は、正岡子規と並んで愛媛では有名人である。特に弟の「秋山真之」は日露戦争において超重要人物であり、「秋山真之がいなければ日本はなかった」と言われるほどの人物である。しかし愛媛以外の人間からしたら、大学受験で日本史受験を選ぶくらいの勉強をするか、『坂の上の雲』を読むかしないと、恐らく一生耳にすることはないだろう。

 秋山真之は、端的に言えば日露戦争の最終決戦である「日本海海戦」において参謀を務め、ロシアのバルチック艦隊を破った立役者である。大学受験の日本史ではせいぜいその程度の知識しか得られないが、『坂の上の雲』を読むとその詳細がわかり、「なぜ日本海で開戦したのか」と、「バルチック艦隊が敗北した理由」というのがよくわかる。そもそも「バルチック艦隊は日本の北から攻めてきたわけではなかった」という点がびっくりであった。ヨーロッパのバルト海からえっちらおっちら時間をかけてやってきたのである(バルト海の艦隊だからバルチック艦隊と呼ぶ)。つまり、バルチック艦隊は北から来たのではなく、大西洋からアフリカ大陸を迂回して南から攻めて来たのである。で、日本は北で待ち構えて迎え撃ったのである(対馬沖)。ロシアと日本との国の位置から想像していた日本海海戦の構図とは真逆なのである。ロシアまじデカイし。

 正直、日本史の先生がこのことを把握していたかはかなり微妙だと考えている。なぜなら、知っていたら話したくなる内容だからである。ロシア極東のウラジオストックから南下してきたという自然な発想で教えられたような記憶がある(また、それに疑問をもつことも当然なかった)。しかし歴史的事実を超簡単に述べれば、「ウラジオストックにバルチック艦隊が到着したら日本ヤヴァイ」という向きがあり(制海権的な問題)、日本海海戦はそれを阻止するための戦いであったのである。

 日本海海戦では、バルチック艦隊が「日本海側から来るか太平洋側から来るか」というのが、待ち構える日本としては重要なポイントであった。で、いろいろと論議を呼ぶ点であるのだが、バルト海からアフリカ大陸を周って長旅をしてきたバルチック艦隊は最短経路である日本海を通ることにして、日本はそれを読みきったということになる。待ち伏せしていた日本の連合艦隊は「東郷ターン」という異名をもつ「敵前大回頭」という歴史上類をみない戦法をとって、バルチック艦隊を撃破する。

 この時、日本の連合艦隊側で先頭を務めたのが記念メダルでもおなじみの【三笠】であり、数分で数百発の砲弾を浴びたらしい。【記念艦 三笠】として今尚称えられているのはこの辺の事情であると思われる。

 ちなみに当時の戦艦は「砲撃では沈没しない」というのが定説であったが、日本の「下瀬火薬」と呼ばれる特殊な火薬が甚大な威力を発揮したそうで、バルチック艦隊は殲滅された。バルチック艦隊側は「とりあえず被害を受けてもウラジオストックまで逃げ込めばよい」という考えがあったらしく、被害を受けても突っ切るつもりで戦闘に臨んだが、その目論見が外れたことになる。

 松山出身の秋山真之は、この作戦において連合艦隊総司令官の東郷平八郎と並び大きく関わっていたため、司馬遼太郎の小説で取り上げられ、松山では夏目漱石の『坊ちゃん』と並んで有名人なわけである。ただ秋山真之の晩年は霊的なものへの研究に費やされ、日本海海戦で全てを使い果たしてしまったというような見方をされることが多い。日本海海戦での勝利、ひいては日露戦争での勝利が「人智を超えた何か」に導かれたものであるという考えに至ったためであるという見方が、小説等ではよくされる。

 同郷の正岡子規とは幼少期からの友人で、自身も「秋山文学」と称されるほどの文才があったことで知られている。正岡子規と通じていたこともあり、和歌も得意とされるのだが、よく引用される秋山真之の歌は

 雪の日に北の窓あけシシすればあまりの寒さにちんこちぢまる

 という才能の片鱗を全く感じられない歌である。ピカソの『ゲルニカ』は逆に名画であるというのと同じであろうか?

 そんなこんなの松山紹介、秋山真之紹介でありました。ちゃんちゃん。




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